みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 2月 2004

ちょっと今日は暖かかったですね。
風邪を引き、鼻の下に熱の花ができて、恥ずかしいので
マスクをして外出しているのですが、花粉症ですかと
言われるようになりました。春近しですね。

さて、芹沢鴨、下働きのお婆さんはとても良い人だったと
言い残しています。
でも、あの吉良上野介も地元では評判が良かった。
大河ドラマ「新撰組!」前半の山場はやはり芹沢が
いてこそですね。
彼がいなければ新撰組もワサビが効いてないですね。
しかし、彼の鉄扇、どんなんやったんでしょう。
今も現存しているんでしょうか。
見てみたかったわ。

昨日の伊東成郎さん深夜ラジオ放送のまとめです。

土方の写真を新撰組を知らない20名ほどに見せたら、
明治・大正期の法律関係の人と答えた人が多かった。
女性が定期入れに入れているのを目撃したこともあ
ります。講演会に来てくれる人も女性が多いです。

江戸から京都へ、清川八郎のあの言動のため江戸に多く
帰ってしまい、24名からのスタートだった。最初は修学
旅行生のようにぞろぞろと御所を見学したそうです。

池田屋の息子が明治9年に事変当時のことを克明に記した
資料を京都市に提出しています。その資料の存在はつい
先日分かりました。それで、このことは今始めてここで
お話します。
吉田稔麿(24才)、当日の夜10時に池田屋に到着し、帳場で
手紙をあちこち届けさせています。それからすぐ十数名集
まってくるのですが、近藤らが池田屋に突入したのもその
10時あたりで、どうやら、近藤達は吉田に呼び出された人達
が入っていくのを目撃したから分かったのではないかと思っ
ています。古高奪還のため新撰組を襲おうと話していた時に、
その新撰組が押し入ってきた、吉田達の慌てぶりは想像を
絶するものだったでしょう。茶碗や皿も投げつけたと資料
に残っています。翌朝の6時から7時まで池田屋のみならず
市中大捜索して逃げた者達を捜索していた。

壬生浪士、かえるの行水、などと呼び捨てられ、北海道に
行っても尚、新撰組とは呼ばれず、壬生浪士と呼ばれていた。

浅黄色のあの隊服は当時の死装束の色で、処刑される者が
着る色合い、しかし、武士は好んだといいます。五年間で
20人未満の浪士を斬り、新撰組は捕そくを多くしていた。
身内は40名以上を粛清した。六年あまりの存続、しかし、
その存在感は凶暴・悪役なれど、彼らの存在の面白さは
比べるものとてない。

永倉新八、歴史が用意した語りべ、彼がいなかったら
こうまで新撰組のことは分からなかった。近藤は薩摩の
多くの要人からも武士として死なせてやりたかったと
いう言葉が多く残されている。

ある隊士の墓に添えられたノートに、
「妥協しない青春て好きだ」の一行、思わず自分の
ノートに書き写したほど心に残る一言でした。

では、また。

とうとう、今年二度目の風邪を引いてしまいました。
インフルエンザが流行っていますので、くれぐれも
ご注意下さい。

さて、札幌雪祭り、今年は五稜郭築城140周年でもあり、
その五稜郭と土方歳三の雪像が造られていると耳にしました。
北海道の友達に行ったら写真を写して来てと頼みましたが、、
どんな土方像が造られているのでしょうか。
一見の価値ありでしょうね。

では、今書店に並んでいる「歴史街道」2月号 
近藤勇と新撰組、続きです。

「選」と「撰」どちらが正しい?  山村 竜也

 隊名を与えた会津藩側では「新撰組」(新撰組という名称は会津藩に
 かつて存在した武闘集団)という意識があったとしても、与えられた
 近藤側にはそれほどのこだわりがなかったということ。当時は現在
 と違って、漢字の表記についてはとてもおおらかで、音さえ合って
 いればどうでもいいというようなところがあった。現代の我々に
 とっては「選」か「撰」かは重要な問題であっても、当の彼らにして
 みれば、取るに足らないことであったのかもしれない。

隊服は黒ずくめだった?     山村 竜也

 デザインが派手で、素材も夏向きの麻であったため、見た目にも安っぽく
 製作当時こそ使われていたが、次第に誰も着なくなったという。最後に
 目撃されたのは、池田屋事変の時であったから、その後、間もなく廃止
 されたと考えられる。使用期間は2年も満たない短期間であった。それ以後
 はの制服はというと、肥前藩士の記録によると慶応三年のある日、京都
 市中での記述に「黒衣黒袴、問わずしてその新撰組たるを知る」という
 箇所がある。断定することはできないが、ありえる話ではある。