いよいよ桜も満開、この土日にはみなさんどこかに見に行かれる
のでしょうか。友だちが教えてくれたメルマガ、面白そうです。
歴史の「そうだったんだ」【幕末・維新編】
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000141288
http://www.mag2.com/m/0000141288.htmlさて、北海道文化放送製作の「新選組 永倉新八からの伝言」、という
単発のドキュメントの録画を友だちが送ってくれました。この番組は、永倉新八のひ孫、番組ディレクターの杉村さんが
作られた番組で、当初は北海道文化放送のみの放送だったそうですが
好評につきあちこちで放送されているそうです。ひ孫ということで
いろんなイベントに呼ばれて参加しているうちに、「永倉が、袂を別
った近藤の墓建立に奔走したのはなぜか?」という疑問を持って、
今回、この番組を制作されたとのことです。ひ孫さんは現在37歳、新八があの「浪士文久報国記事」を書き、
板橋に近藤勇と土方歳三の慰霊碑を建てたのも37歳、同じ年齢になって
彼は考えたそうです、新八は何を思って建立に奔走したのか、新八に
とって新選組とは何だったのかということを・・。新八の足跡を追いかけていく構成で番組は進みます。
ゲストとして浅田次郎、黒鉄ヒロシ、立川談志など、新選組の研究家や
愛好者に話を聞きながら新八の実像を迫ろうとしていきます。
「浪士文久報国記事」を横浜の素封家の倉から見つけ出してくれた
多田敏捷氏、ご自宅を訪問して、その「浪士文久報国記事」を前にして
インタビューされていて興味深かったです。そして、新八の着た紋付羽織を
お持ちの方がおいでで(新八が写真で着ている)、その羽織をひ孫さんが
羽織られて、目の辺りが新八にそっくりだわと思いました。死と向かい
合っていた新選組時代の新八が、まさかひ孫が自分の羽織を着てくれる
だろうなんて、考えも及ばなかったでしょうね。幕末の主な登場人物は
永倉のように直系のひ孫など存在するのは稀で、永倉がいてこそ、新選組の
詳細が分かるようになったり、貴重な存在ですよね。板橋駅前の慰霊碑(近藤勇の遺族が刑場から遺体を掘り返して来て埋めた場所)の、
明治30年頃の古写真を本などでは見ましたが、この番組で見るととても辺鄙な
場所で広い野原の中にポツンとあるんですね。当時まだ賊軍として白眼視されて
いた人々の碑を建てるのは、すごいエネルギーです。当時のお金で二千万かか
ったそうです。常にたくさんの新選組ファンが墓参に訪れて賑わっています。
新八は晩年小樽に落ち着くまで、東京に住んだ事もあり、近藤の月命日には
必ずここを訪れていたそうです。そして自分の死に際しては、慰霊碑の隣に
分骨して葬るよう遺言したとの事。 明治十年になって、京都に行き、近藤の
首を探し回った新八、永倉が改名した杉村「義衛」という名前の意味は「義を
衛る(まもる)」で、それは司衛館の「衛」。新八にとって試衛館で仲間たちと過ごした若き日は、人生最良の時だったの
ですね。1時間で上手くまとめられて良い番組でした。
コメントを残す