みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 5月 2005

九州旅日記、その2です。

鹿児島市内に黎明館(れいめいかん)という明治百念を記念して
昭和58年に開館した歴史資料センターがあります。

ここで西郷さんの軍服を見ることができます。なるほど、とても
大きくて生前の西郷さんを彷彿とさせてくれます。もう一つ、
印象に残っているのが、大久保利通・愛用の洗面セットとでも言い
ましょうか、ヘアーブラシ・コップ・洗面桶・・、色はなんと鮮やかで
冷ややかなセルリアン・ブルー、ブラシに残っていた頭髪から
大久保の血液型は O 型。色合いから大久保の冷徹さが頭を過ぎりましたが
血液型を知り、なぜかホッとした私でした。

さて、その西郷と大久保、維新後の彼らの様子を知る逸話があります。
政府高官に収まると贅沢三昧が高じた大久保、イギリスに高価な軍刀を
発注します。それを聞きつけ、西郷はその軍刀を借り、なかなか返さずに
いました。大久保が催促すると、「あの軍刀なら、書生が欲しがるのでやった」
と西郷。維新後、政府高官らは驚くほどの高給を取り、壮大な邸宅に住み、
蓄財した。だが、西郷だけは、給料は人民の血税、私財を蓄えるのはもって
のほかと質素な生活を送っていた。西郷は大久保に対して不信感がつの
っていったという。

また、西洋諸国の良い点も悪い点も、全てひっくるめて模倣しようとす
る新政府の欧化政策に対して、西郷は大きな懸念を持っていた。
政治家としての素質は十分にありながらも、西郷が最終的に政治家
として道を歩むには、その心中が清廉過ぎたのかも知れません。

西郷さんの話はまだまだ続きます。

さて、今日は、桐野利秋の話を追加です。
亡くなった時、桐野の遺体にはフランス香水が漂っていたそう。
しゃれた人だったのねと思っていました。

田原坂での敗戦の後、一路鹿児島へと向かった。二週間以上にも渡って山中を
さ迷よったことから衣服は無残なまでに破け、ボロボロになっていた。
そのため、鹿児島に突入した薩軍は、政府軍が残していった衣料品などの
数多くの物資を手に入れ、桐野もまた自分に合う服を見つけていた。その
洋服には、なんと桐野にぴったりの大きなシルクハットもついていた。
桐野は常にそのシルクハットを被って、兵士達を叱咤激励。その桐野の
勇躍した姿は、非常に雄々しいものであったと伝えられています。

死後、そのシルクハットは政府軍の持ち主に戻されたという。

桐野は持ち主に丁寧な礼状を認めていて、持ち主はその手紙を深く愛蔵していたと
伝えられています。というわけで、そのフランス香水はその政府軍高官の
品だったというオチでした。

次週、5月25日の「その時、歴史が・・」は西南戦争がらみのお話。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html

                    旅日記、つづく

お元気でお過ごしでしょうか。

5月のGWに九州縦断往復920キロ旅して来ました。

小倉まで新幹線、それからレンタカーを借りて南下し、まずは熊本の田原坂へ。

田原坂資料館には当時の大砲や小銃などの武器をはじめ、すさまじい
銃撃戦の戦争後の写真などが展示されています。また現地には西南の
役戦没者慰霊之碑、激戦の様子をまとめている碑文もありました。
そのうちの一枚を写しました。
ご覧になりたい方は私までDMを下さい。写真は4枚あります。
写真3の銃弾の跡も生々しい倉は復元品です。

当時、大砲や軍事物資を載せた馬車の通る広い道はこの道しかなく、
田原坂の強行突破を計る官軍は、左右の高い土手や正面の雑木林から
姿の見えない薩軍に銃撃され、退却しようとすると前後に回り込んだ
薩摩兵に切り込み攻撃を受けこの坂を抜くことができず、何の変哲も
ないわずか1.5キロメートルのこの坂を巡って、3月4日から
17昼夜にわたる激しい攻防戦が展開されたのです。参戦者約10万人
死傷者3万6千人、ここ田原坂では死傷者6千5百人。

官軍は一日30万発以上の銃弾を消費、これは20年後の日露戦争での
旅順要塞攻撃時とほぼ同じ数。輸入されたばかりのワインや牛肉の缶詰を
楽しむほど物資が豊富で、ワインのビンも資料館に展示してありました。
鍋を 鋳つぶして弾丸を造っていた薩軍とは大違い。

有名な「空中かちあい弾」(両軍の放った弾丸が空中で衝突し、融合した
もの)も、 一つや二つでなく、バケツ一杯ほども展示してあって、
近代戦のすさまじさを物語っていました。兄弟5人が薩摩軍に参戦し、
全て亡くなり家系が途絶え、その兄弟の写真がありました。三男は笑って
写っていましたが、西郷さんらと共に戦い幸せだったのかな。

田原坂はツツジが満開で、とても風光明媚な所でした。それらに見とれ
ていると、背後にあるおびただしい名前が連なっている慰霊碑のなんと
重いこと、、。その前で心から合掌している青年を見て、125年前
の戦い散った青年達の姿とだぶりました。

                    つづく

西南の役とは、、

明治政府は廃藩置県や地租改正を進め、封建から近代国家への歩み
を進めていったが、旧藩閥の対立や戦争、官僚の汚職・職権乱用
事件などを抱え、新政府内は決して安定したものではなかった。
また、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の
不満が徐々に高まっていった時期でもある。

 その状況のなか、明治6年に参議・近衛都督の職にあった陸軍大将・
西郷隆盛が、いわゆる征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野。
西郷の後を追うように、桐野利秋・篠原国幹の両陸軍少将をはじめ
宮内大丞・村田新八ら政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人
約600人も大挙して辞職し帰郷した。

これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と
政府に残った大久保利通派に大きく分裂することになる。  
帰郷した桐野利秋・篠原国幹らを中心に士族中心体制が構築されつ
つあるなか、明治7年に私学校が開設される。藩政の骨格がその
まま私学校の組織に再編成され、役人の人事も中央に従わず、
鹿児島はさしずめ独立王国の観を呈していた。明治維新を成し遂げた
薩長土肥のなかでも、抜きんでた力を誇る薩摩藩の軍事力はそのまま
健在であり、また反政府感情も極めて高かったことから、中央政府に
してみればいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなものであった。

明治7年2月、江藤新平らによる「佐賀の乱」が起こっていた。
明治9年の廃刀令や金禄公債証書発行条例などの公布でますます
士族の不平が高まるなか、同年10月には熊本「神風連の乱」・
福岡「秋月の乱」・山口「萩の乱」など、その思想的背景は必
ずしも同じではなかったが、立て続けに士族の反乱が起こる。
相次ぐ反乱にも関わらず沈黙を守っていた薩摩は西郷の威望に
よりその爆発力を押さえ込んでいたのである。

鹿児島の処遇について、長州藩の木戸孝允は薩閥の代表である
大久保の責任を厳しく追及。木戸の突き上げにより大久保は、
腹心であり、同じく鹿児島出身の大警視・川路利良らと善後策を図る。
川路は12月に鹿児島出身者の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、
状況の視察と私学校関係者の離間工作を指示。政府はこれに呼応して、
鹿児島にあった陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。

これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、
桐野や篠原ら私学校幹部に無断で火薬庫を襲撃。さらに密偵の
大量逮捕によって、真偽は不明ながらも西郷暗殺の計画が流布
されるに至っては私学校側も激昂する。 火薬庫襲撃事件が
私学校に対する弾圧の口実となった政府との対立は決定的と
なっていた。予期せぬ火薬庫襲撃事件に西郷は「汝どま、弾薬に何の
用があっちゅうとか!ないごて、追盗っせえ!(お前たちは弾薬に何の
用があるのか!どうして盗んだのか!)」と幹部を前に激怒したという。
しかしながら、私学校幹部ほか挙兵決行の意思が強いのを知ると、
ついに西郷も決意。ここに運命の振り子が大きく振られたのである。