みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 5月 2009

ふたたび大河ドラマに龍馬を登場させて欲しいと、
全国から署名を集めたのは10年前になります。

懸命に集めてNHKに持参しましたが、既に各地から二十もの希望が出されていいることを知ってガッカリしました。

二十年も待ったのでは私はおばあちゃんになってしまいます。
それが、なんと、来年に大河に登場、みなさん、楽しみにしておられることでしょう。

その時、ちょうど、桂浜の龍馬像の台座の修理で募金も集めました。

確か五千万円!

足りずにいろいろとアイディアを考え、無事に集り修理を終えたと知らされてほっとしたことも・・。

高知観光課の方から、修理の時に出た像のコンクリの一片を、記念に頂戴しました。

今でも、大切にしています。

私の宝物ですね。

十年ぶりで、高知に行っていました。

一日目は、桂浜で龍馬と再会し、夜は「松うら龍馬亭」で、訪れた有名人の写真を見ながら楽しく語らいました。イチローまで来ていたとは、、、龍馬ファンなのでしょうか。

龍馬研究会の岩崎会長やエッセイストの渡辺留海さんを現地の友人U氏に頼んでお呼びして頂きました。岩崎会長からは、龍馬の珍しい話をお聞きし、渡辺さんには「よさこい節」を歌って頂き、高知の夜を楽しみました。

龍馬研究会会長、高知の語り部、岩崎義郎さん、お会いできて本当に嬉しかったです。その笑顔、お話し振り、心に染み入りました。
http://www.netwave.or.jp/rekishi/kataribekiko/kataribekikotosa.htm
たくさん著書も出されておられます。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8A%E2%8D%E8%8B%60%98Y/list.html

 

江戸後期に日本人として初めて米国に渡ったジョン万次郎
ゆかりの米国の住宅が、日本の浄財で修復されホイット
フィールド・万次郎友好記念館として開館した。

土佐中ノ浜(土佐清水市)の漁師だった万次郎は1841年、
無人島に漂着していたところを捕鯨船のホイット
フィールド船長に救われた。記念館は船長の旧宅で、
マサチューセッツ州フェアヘーブンにある。

百六十年以上が経ち、住む人もなく荒れた状態で売りに
出されているのを知った聖路加国際病院関係者らが、買取と修復のため募金を集めた。

少年だった万次郎は、船長にわが子のように愛され、この家から学校に通い、
測量術や航海・造船学などを身につけた。鎖国下の日本に帰国し、ペリー来航時の
通訳などとして活躍した。船長は日本近代化の恩人といえよう。

万次郎の長男、中浜東一郎は父から英語を学んで医学を修め岡山県医学校で
教授を務めた。倉敷の医師が発見した肝臓ジストマの再確認などの業績を挙げた。

友好記念館は地元の役場に寄贈され、今度は米国への恩返しということになる。
記念式典で「日米友好のシンボルとなることを期待する」と紹介された。

草の根交流の拠点として役立ってほしい。

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以上、地元の山陽新聞掲載記事をご紹介しました。

土曜、日曜、祝日は原則として休館の京都御所。

天皇御夫妻御成婚五十周年記念で一週間だけ特別公開され、未公開部分も見学できました。

天皇の在所である立入り禁止区域を「禁裏(きんり)」と言います。東西250m×南北450m。狭い空間なのですが、たくさんの建物がありました。

御所の南側は「紫宸殿」を中心とした重要施設が並び、
その伝統美は日本の宮廷文化の粋を集めたもの。

御所の周りを取り囲んで、約200軒の公家の住居が建ち並んでいたのが、明治になって公家屋敷群は撤去されています。

幕末の御所の歴史は複雑で、攘夷運動から始まった騒乱が、
尊皇攘夷運動から攘夷が消えて討幕に形を変えるのです。

天皇は去り、既に役目を終えてはいますが、今だ絢爛と輝いていました。