みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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坂本龍馬が寺田屋事件で使ったとされる拳銃と同型の銃=高知県佐川町甲の同町立青山文庫で2009年11月11日、千脇康平撮影 

坂本龍馬が寺田屋事件で使ったとされる「スミス&ウェッソン2型」と同型の拳銃が高知県で見つかった。

今月20~29日、同県佐川町の町立青山文庫で公開される。

 1861~74年製造モデルで、6連発式。維新の志士らが護身用によく携行したというが、現存するのは珍しい。民家で偶然発見され、高知地検から展示用に譲り受けた。

 寺田屋事件で龍馬が木戸孝允にあてた手紙に「高杉(晋作)より送られ候ピストールを以て打払い」と登場。同文庫は「気概が伝わってくる。見に来て」と龍馬ファンを“狙い撃ち”。    

                                          12月27日 毎日新聞

龍馬?の写真発見 大浦慶親戚の子孫宅で
 
 大浦慶 (竹谷浩和さん提供)  幕末から明治にかけ、茶貿易で活躍した大浦慶(1828~84年)の親戚の子孫にあたる長崎市新戸町2、自営業竹谷浩和さん(49)の自宅から、坂本龍馬(1835~67年)とみられる、名刺大の写真が見つかった。

慶は幕末の志士たちを支援したとされるが、龍馬との関係を示す資料はほとんどなく、専門家は「本物であれば、新たな史実の発見につながる可能性もある」と関心を寄せている。

 厚紙にはり付けられた写真は、縦9・2センチ、横5・7センチ。
龍馬らしい人物が右斜め前を向いてイスに座り、写真家・上野彦馬(1838~1904年)が撮影したとされる著名な1枚とほぼ同じ構図。

 竹谷さんによると、竹谷家は幕末の時代、長崎市本石灰町で貿易商を営んでいた。特に、曽祖父、政一さんは慶にかわいがられたという。その縁もあり、竹谷家が慶の遺品を譲り受け、3代にわたり管理してきた。

 高知県立坂本龍馬記念館の主任学芸員・三浦夏樹さん(37)によると、現在までに発見されている龍馬の写真は7種類で複写を含めて10枚ほど。

 当時、写真は自らを紹介するものとして使われたとされるが、高価だったため、ごく親しい人にしか渡さなかったという。

 三浦さんは、「状態を見ないと分からないが、原板から焼き増ししたものなら大変貴重。龍馬と慶のつながりを示す資料にもなる。何より大浦家側から見つかったというのが面白い」と注目する。竹谷さんは「今年は日本から茶の輸出が始まってちょうど150年。この写真をきっかけに、お慶さんの存在も広く知ってもらいたい」と話している。

神戸の「和田岬砲台」を見学したのは三年前になります。
この史跡は三菱重工業株式会社・神戸造船所内にあります。
電話予約しますと係員の方に案内して頂けます。
造船所の構内は約6000人の方が働いていて、普通では入れない貴重な造船作業も見学できます。

砲台は石垣の崩落が見られ、危険ですので内部見学が不可能となっていました。
外周を巡ると140年よくぞ持ち堪えてくれたとそんな気持ちが沸いてくる砲台です。
兵庫県史跡第一号に指定されました。当時の建設費は現在の価値で25億円、
工事中には家茂や慶喜が視察に来たそうです。
当時は漆喰の白が海の青さに映えて、綺麗だったそうです。
その漆喰も剥がれ落ちていました。
年間300名ほどが訪れ、幕末に思いを馳せておられます。

復旧工事を願っていましたら、2012年には再び内部見学ができるとのこと。
再び、訪れたいものです。

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幕末に勝海舟が設計した「和田岬砲台」80年ぶり改修へ

 外国船の襲来に備え、幕末に勝海舟(1823~99)が設計した兵庫県内初の国史跡「和田岬砲台」(神戸市兵庫区)の老朽化に伴い、約80年ぶりとなる本格的な改修工事が8日、始まった。阪神大震災以降、外壁がはがれ落ちるなど危険な状態が続いていたため、砲台を所有する三菱重工業神戸造船所(同区)などが<平成の大修理>を計画。2012年度までに修理を終え、震災以降は公開を中止していた砲台内部を見学できるようにする。

 砲台は1864年に完成。外側は花こう岩の石造り、内側は木造2階建ての円筒形で、直径約15メートル、高さ約12メートル。実戦には使用されず、1921年に国史跡に指定された。
 円筒形の砲台は江戸末期、大阪周辺の4か所で造られたが、内部の木材が現存するのは和田岬だけ。砲弾を保管するための棚や、砲身を冷やすための井戸など当時の様子がうかがえる。

 大規模な修理は、1927年以来。近年、外壁の石の剥落(はくらく)や、内部のシロアリ被害などが目立つようになり、同造船所は震災後、内部の一般公開を中止。危険なため、2006年からは周辺への立ち入りも禁止した。
 改修は、国などの補助を受け、約5億6000万円をかけて取り組む。内部の木材を一度すべて取り外し、古いケヤキの柱などを交換したり、外壁の石のすき間を埋めたりする。

 この日は、近くの和田神社(奥田雅人宮司)で安全祈願祭があり、関係者約20人が工事の無事を祈った。同造船所の担当者は「大切な史跡を多くの市民らに再び見てもらえるように、しっかり修復したい」と話している。

今回は、井伊直弼です。
この方、私にとっては厄病神です。
武士の体面を無視、切腹させず斬首を強行しました。
安政の大獄はジェノサイドでした。
私は橋本左内のファンです。
当初、彼の罪状は遠島送りでした。しかし、井伊は斬首に書き直しました。
なんということでしょう。
左内の心情やいかに、、思うとため息ばかりです。
有望な人材を無為に抹殺してしまいました。
大阪の適塾には再々出向いて左内、福澤、村田(大村)にお声を掛けています。

お写真は、18代当主、彦根城博物館館長・井伊直岳氏、
井伊家の婿養子殿であります。
なんと眉の形から、顔付きまで肖像画にそっくりです。
お優しい方にお見受けいたしました。

 

直弼は強権政治家ですが、
激動の幕末に大老として幕府の舵取りに力を尽くし、
己の信念を貫かれました。
徳川家を守るという、譜代大名筆頭の仕事を尽くしたともいえます。

「直弼は、茶の湯の思想を最初に表現した人といわれています。
茶会での出会いは一生に一度限り、だからこそ、その出会いを大切にせよと
『一期一会』の行き方を貫かれました。徳川家を守るため、場当たり的な行動ではなく、
長期的視点を持って行動したのです。昨今の日本、私達は今、直弼の『一期一会』
の精神とその生き方を見直すべきではないでしょうか」と直岳氏。

懐に遺書をしたためていたという直弼、やはり突出した大老であったことは確か
です。