みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 6月 2010

 

 それから、御所の北と南を塀沿いに歩き、荒神橋から近衛通りを抜けて聖護院へ。
ここも特別公開中で中に始めて入りました。内部は、御所から移築してきたとい
う素晴らしい障子や襖の数々、市松模様の白州の庭にびっくり(ノミ切り平板というのですね)。
いつも前を素通りしてばかりでしたので、内部の広さには驚きました。
最後は黒谷金戒光明寺へ。幕末には、京都守護職、松平容保の宿営のあった場所です。
更に歩いて、黒谷へ向かいました。
今回は山門が特別公開で、狭くて急な階段を登りきると、京都の絶景が広がっていました。
そして、特別公開の法然上人御廟を拝んで後、戊辰戦争の会津藩の戦没者の
会津墓地に登りました。
11時に出発して午後4時に無事に終えました。ひとりの落伍者もなく、
老人から子供まで約1万五千歩をよく歩きました。
打ち上げは四条河原町の居酒屋で行い、歴史談義に花を咲かせました。
作家の星亮一先生のオフィシャルサイトhttp://www.mh-c.co.jp/
に写真を掲載しています。
今回も和気あい合いの京都集会でした。
一万五千歩、楽しく歩くことができました。
次回は秋の未公開文化財特別公開です。

  数年前のこと、高知の日曜市で幕末の志士の手紙が古い手紙の中に混じって売られていたと聞いたことがありました。見つけ出した人もすごいですが、そんな貴重な手紙が、今だに発見されるということもすごいですね。

今回の龍馬の新しい手紙の発見は、まだまだ発見されるのではと期待を持たせてくれるニュースです。

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幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日、確認した。

 大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。

 手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。

 龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。

 持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。

 後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。手紙は7月17日からの同館の企画展で展示する予定。



  坂本竜馬一家と交流のあった無名の土佐藩士の日記が専門家の間で静かな注目を集めている。幕末の血なまぐさい政治情勢をよそに日ごろの生活や竜馬の兄との交流が淡々とつづられ、専門家は「世間の激動から一歩距離を置いた中年武士の思いが表れ面白い」と評価している。

 筆者は作家安岡章太郎さんの祖先の土佐藩郷士安岡文助。1800年代中ごろの日常を約30年間、約220ページにわたって書き留め、幕末維新期の祖先を取り上げた安岡さんの小説「流離譚」にも登場する。

 次男嘉助は藩の重職吉田東洋の暗殺犯で、過激な政治活動に打ち込んだ志士。だが、暗殺があった62年は「嘉助 大石団蔵 那須新吾 坂本龍馬 亡命」(4月8日)など3日分しかない。暗殺に触れず、名前の表記や日付が事実と異なる個所もあった。

  県立坂本竜馬記念館の三浦夏樹主任学芸員は「息子の行動にショックを受けたのだろう。書くのがはばかられたのかもしれず、複雑な思いが読み取れる」と話す。日記は、緊迫した状況と一見無関係の出来事を多く記した。高知県香南市の安岡家で保管され、一般公開はしていない。(共同通信社)