みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 9月 2010

清水谷公園からプリンスホテル赤坂、ホテルニューオオタニ、
一ツ木通りを経て、赤坂サカスへ。赤坂サカスの『サカス』は、
桜を咲かすという意味であると同時に赤坂にたくさんある
『複数の坂』の意味もあるそうです。
赤坂サカスでは「ラーメン・フェスティバル」を覗いてみ
ました。全国各地の有名ラーメンを食べられます。

大いに迷いましたが喜多方のご当地ラーメンにしました。
パスタ好きの私には太麺の喜多方ラーメンと相性がいいようです。
午後からは、サカスのすぐ前のTBSテレビを見学し、勝海舟邸へ向かいました。
邸宅跡は少し離れて2カ所あります。両方の邸宅は現存していません。石碑が建
てられていました。一方の邸宅跡には小学校が建てられていましたが、少子化の
ため廃校となり、現在は公共施設になっています。施設内には、勝邸の庭から発
掘された一家が使用していた食器の破片や遺品が展示されていました。他方の勝
邸跡はモダンな喫茶店になっています。この勝が屋敷に住んでいた時、坂本龍馬
が足繁く訪れていました。

昨年の二月からずっと歯科医院に通っています。そこの待合室にあった今月号の「ニュートン」、つい手に取り、目が点になりました。

「 学問の歩きオロジー
  共立学校・開成学園創立者 佐野鼎(2)
  ―ヨーロッパ各国を歴訪する」

万延元年遣米使節団と遣欧使節団に加わった佐野鼎(さのかなえ)を特集していました。
小使賄方兼(加賀藩士)という身分の低い役職でしたが、世界を見てやろうという気概に富んだ人物でした。

1860年、日米修好通商条約を批准するために日本がアメリカに使節を派遣したさい、ポーハタン号に福沢諭吉など日本の優秀な人材を乗せてハワイ経由でアメリカに渡った、その中に幕臣益頭駿治郎の従者として乗った佐野鼎がいた。佐野は、いち早く西洋の学問に目覚め、砲術家として名だたる地位を築いていた。当時のニューヨークタイムズは佐野の優秀さを激賞している。佐野はその後も多くの業績を残している。開成学園設立もその一つで、英語教師としてイギリス人オスボーンを招聘している。

コレラで若くして亡くなりますが、思わず手に取った、科学誌「ニュートン」で幕末維新の偉人を再認識しました。

万延元年遣米使節といえば、9月25日、みなさん、お集まり下さいね!

●「万延元年遣米使節150周年記念」  後援 外務省
       日時 9月25日(土)午後1時~4時
       第二部 記念講演会 午後2時~4時
       講演者 星 亮一 (歴史作家)

おめでとうございます!
山本三郎さまが出版なさいました。
題名は、「仙台藩士幕末渡米記」です。
定価2100円(税別)

お問い合わせは出版社「荒蝦夷(あらえみし)」までお願い致します。
電話022-298-8455

題名にある仙台藩士とは、みなさま、ご存じの玉蟲左太夫のことです。
山本さまは、ご子孫にあたられます。
星先生が解説を書いておられます。
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150年後子孫が現代語訳出版西洋文明克明に記録

出版した本を手に、玉蟲の魅力を語る山本さん 幕末の動乱期、幕府使節団の一員として渡米した仙台藩士・玉蟲左太夫が記録した、「航米日録」の全文を現代語訳した「仙台藩士幕末世界一周」が出版された。翻訳したのは玉蟲から5代目の子孫にあたる仙台市の山本三郎さん(74)。玉蟲は武士の常識にとらわれず、民主主義の理念をくみ取り、西洋文明を詳細に記録。今年は渡米から150年後にあたり、山本さんは「幕府使節団や玉蟲のことを若い人にも知ってほしい」と話している。

◆咸臨丸が随行

 玉蟲は1860年1月に日本を立ち、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府正使が乗ったポーハタン号の一員として渡米。勝海舟らが乗った随行艦が咸臨丸だった。一行はニューヨークで10万人の市民から大歓迎を受けるなどして、アフリカ、インド洋を巡り、同年9月に帰国した。

 航米日録は全8巻あり、出発から帰国までを記録した7巻までは、正式な記録として仙台藩に献上された。8巻は個人的な感想が記され、当時の体制を批判する意見も書かれている。

 翻訳本は1~7巻を巻ごとに章立てし、時系列で紹介。8巻は「三郎のひと言」として、関連個所に山本さんの解説付きで挿入した。

 玉蟲は太平洋を渡る途上、アメリカ人の艦長が水夫と一緒に嵐に立ち向かい、すぐに全員に報奨金を出したことに感銘を受け、「このようであるから、一旦(いったん)緩急の時には全員が身を忘れて力を尽くすのだ。この国が盛んな理由も、こんなところにあるのであろう」と記した。病死した水夫のため涙を流す艦長に対し、自国は「上下の情は誠に薄く、彼らに対して恥ずかしい」と封建体制に批判的な意見も明かしている。

 西洋文明への関心は高く、蒸気機関や汽車には特に興味を示した。水洗トイレやシャワー、洗濯機などについても使用法や仕組みを観察、克明に記録。料理にも触れ、ビールは「苦味なれども口を湿するに足る」と感想を残した。

◆列強に警戒感

 一方、当時、アジア進出を目指す列強への警戒感もにじむ。ハワイで会った中国人の薬商からは、英国人について「野蛮人で虎やオオカミに等しく、心は残忍で聖道とは全く相反している」と聞かされた。サンフランシスコでは友人が現地の中国人から聞いた話として「米国は最初は親切だが、用心しなければいけない」との助言が紹介されている。

 「玉蟲は武士階級を超えたやわらかい頭で客観的に物事をとらえ、幕府や薩長ではなく日本ということを意識していた。坂本龍馬と同時代に、そういう傑物が仙台にいたことを知ってほしい」と山本さんは話す。

◇玉蟲左太夫 

 1823年に仙台藩士の家に生まれたが、脱藩して江戸に。57年蝦夷(えぞ)地と呼ばれた北海道や樺太を巡行、気候や風土、アイヌの生活様式などを「入北記」にまとめた。渡米後は再び仙台藩士に取り立てられ、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の結成に尽力し、その後、責任を問われて69年、切腹した。

(2010年9月7日 読売新聞から転記しました。)