みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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  鴨川を渡ってすぐに「女紅場跡(にょこうばあと)」があります。
1872年(皇紀 2532)明治5年 日本で最初の女紅場となった新英学校女紅場が設立されました。ここで新島八重が教えていたのですね。京都府立第一高等女学校(現鴨沂高校)と発展していきます。

 桂の屋敷手前に「舎密局跡(せいみきょく)」があります。
舎密とは、オランダ語のシェミーの訳語で化学のことです。東京遷都により沈滞した京都の産業振興の目的で京都府が設立した理化学研究所でした。明治三年(1870)槙村正直により仮設立され、同六年(1873)本建築が完成。ドイツ人ワグネルらの外国講師を招き、広く受講生を集めました。京都の近代産業発達の基礎を築いたが、明治十四年、閉鎖され、
現在は京都市立銅駝美術工芸高等学校が建てられています。

 「吉田屋跡(立命館草創の地)」
 山紫水明処から数十㍍北の駐車場前に立命館草創の地の石碑があります。明治三十三年(1900)に立命館大学の前身、京都法政学校はこの地にあった料亭清輝楼を仮校舎として中川小十郎によって開始されました。この石碑が建てられたのは立命館大学開設100周年記念の時です。
また、ここは、平成九年(1997)まで清輝楼と呼ばれる料亭(旅館・大和屋)が営業していました。清輝楼は三本木料亭吉田屋のあとを引き継いだもので、この附近は花街として賑わっていました。吉田屋は維新の志士が密会の場所としてよく利用した料亭でした。

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