みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 11月 2011

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南千住駅の駅前にある回向院から、すぐ近くの荒川ふるさと館を見学後、近くの円通寺へ向かいました。そこには移築された上野の黒門があります。
慶応四年(1868)五月十五日上野東台の、彰義隊と官軍の激戦でその中心地に建っていたのが黒門で、明治四十年十月帝室博物館から譲られたそうです。彰義隊の墓もあり、お線香をあげて来ました。 近寄ると(射撃精度
が良いミニエー銃弾から放たれた)椎の実弾が通り過ぎたきれいな穴が無数に残っています。
弾痕、蜂の巣ごとく印し、激戦の状目の當り見るが如し、、です。
また、1963年3月31日台東区下谷で誘拐され殺害された「村越吉展」ちゃんの供養塔もありました。
 
翌日は、架橋100周年記念祭りで賑やかな日本橋から銀座、北上して桜田門から皇居、大手門へと歩きました。二日で三万歩超、楽しい江戸史跡巡りでした。

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さて、続きです。
回向院へ向かいます。南千住駅ホームからすぐです。
小塚原刑場で処刑された犯罪者や牢死者の供養で建てられました。
安政大獄で、吉田松陰のほか梅田雲浜・橋本左内、瀬三樹三郎等の
多くが最初に葬られたのでも有名です。井伊大老暗殺浪士の墓もあります。
二二六事件の刑死者 磯部浅一の墓もあります。心酔していた吉田松陰墓の近くに
埋葬されたいとの願いでここに埋葬されました。
橋本左内は、斬首される時、首切り役人にうまく斬れるように指導したと
言われています。医者でしたから、失敗されても困ると思ったのでしょうか。
悲しい逸話です。
明和8年(1771)3月4日杉田玄白・前野良沢・中川淳庵 ・前野良多沢らが、
ここで、医学書ターヘル・アナトミアを見ながら刑死者を腑分(解剖)けし、
後に「解体新書」として翻訳しました。碑もありました。  

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英明で優柔不断だった慶喜の墓です。向かって左手の墓です。右は正妻の美賀子。
徳川家の菩提寺は 日光東照宮 寛永寺 増上寺の三つがあり 15代将軍・慶喜を除く全ての将軍がいずれかに葬られています。慶喜のみ谷中霊園に葬られているのは 遺言により葬儀が神式で行われたことによります。慶喜は、出身の水戸の徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、朝廷に刃向かうつもりはなく、そのことを示すために、仏式ではなく神式にするよう遺言したとのことです。
慶喜と正室の墓の後ろには側室2人の墓。あとは老女部屋頭と子供、孫たちの墓もありました。慶喜は10男12女もの子供をもうけた。写真を撮り、自転車を乗り回すなど多くの趣味を楽しみ、1913年(大正2年)、歴代将軍の中では最も長命な76歳まで生きた。
 その後、JR日暮里駅をはさんで谷中霊園と反対側にある「羽二重団子」で休憩を取りました。

edo30DSCF0006.JPG  上野に11時に集合でした。集合場所が分からず、ここなら見つけてくれるだろうと待っていたのが、「西郷象」の前。ここには思い出があり、高校の修学旅行が関東で、この前にあったベンチで仲の良かった三人の友達と長い間座り続け話していました。懐かしい場所ではありますが、周りの風景が変わり過ぎています。少しは減りましたがブルーシートがあちこちに点在し、工事現場のように前には大きな目隠しまでありました。景観が悪過ぎますね。

 さて、雨の中、史跡巡りがスタートです。西郷像の後ろには彰義隊の慰霊碑。しっかりと見学しました。
 それから自然が多く残っている不忍池を巡ります。上野公園内には、京都の清水寺を模した建物や、大仏までありました。度重なる罹災により破損、胴体は太平洋戦争の拠出でなくなり、顔面のみがレリーフとして残っています。以前、「歴史ヒストリア」でしていましたね。頭だけ残ったので、入試祈願でお参りする人が押し掛けていました。