みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

月別アーカイブ

edo25DSCF0011.JPG

 

英明で優柔不断だった慶喜の墓です。向かって左手の墓です。右は正妻の美賀子。
徳川家の菩提寺は 日光東照宮 寛永寺 増上寺の三つがあり 15代将軍・慶喜を除く全ての将軍がいずれかに葬られています。慶喜のみ谷中霊園に葬られているのは 遺言により葬儀が神式で行われたことによります。慶喜は、出身の水戸の徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、朝廷に刃向かうつもりはなく、そのことを示すために、仏式ではなく神式にするよう遺言したとのことです。
慶喜と正室の墓の後ろには側室2人の墓。あとは老女部屋頭と子供、孫たちの墓もありました。慶喜は10男12女もの子供をもうけた。写真を撮り、自転車を乗り回すなど多くの趣味を楽しみ、1913年(大正2年)、歴代将軍の中では最も長命な76歳まで生きた。
 その後、JR日暮里駅をはさんで谷中霊園と反対側にある「羽二重団子」で休憩を取りました。

4 Responses to 東京史跡巡り、その2

  • 慶喜公だけ神式でお葬式をされたんですね。
    初めて知りました。
    だから、自分は家来を置いてでも逃げたんですね。
    絶対に逆賊にはなりたく無かったんですね。。。
    死ぬまで尊王思想を貫いた所は、立派だと思います。

  • コメントをありがとうございます。
    確かに、そうですが、家来を残して
    自分だけ秘密裏に江戸へ逃げて帰るというのも
    なんですね、主君の行いとしたら、裏切りですから。
    どうもしっくりいかないですが、、。
    見方を変えれば、あさぎさまのおっしゃる
    ことも一理ありますね。

  • 義父の父は慶喜公の小姓でした 江戸城明け渡し後は音楽学校の
    国語の先生に転職したそうです当時のこと詳しく聞いておけばと
    思いました。

  • >五番街さま
    コメントをありがとうございます。
    なんと慶喜公のお小姓をされていたとは!!
    転職も素晴らしいご職業でした。
    当時のこと、、お聞きしたかったです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です