みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

月別アーカイブ

k 18DSCF0031.JPG次の日は久留米市内を歩きました。
なんと、久留米には、尊皇思想家で有名な高山彦九郎の墓があったではありませんか!

三条京阪(京都市)にある高山彦九郎の銅像は有名ですね。
吉田松陰はじめ、幕末の志士に多くの影響を与えた人物です。

なぜ、久留米に高山彦九郎の墓があるの?

で、ウイッキペディアで調べてみました。

上野国新田郡細谷村(現群馬県太田市)の郷士高山良左衛門正教の二男として生まれた。13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。
京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁した。その感激を詠った次の歌は、愛国百人一首にもとられており、名高い。
 
我を我としろしめすかやすべらぎの玉のみ声のかかる嬉しさ

尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。1791年(寛政3年)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとするが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛される。その後も幕府の監視を受け、1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。

 志半ばで倒れた高山彦九郎、久留米で手厚く葬られていました。

2 Responses to 久留米の驚き、その2

  • 高山彦九郎の銅像といえば、あの御所の方に向かってお辞儀している像ですよね♪
    少し前にあの銅像に誰かが落書きをした、というニュースを聞いたような気がします。
    何処の誰かは知りませんが、罰あたりな事をするなあ、と思った記憶があります。

  • >あさぎさま
    コメントをありがとうございます。
    そうです。裃を着けてお辞儀してはります。
    像に落書きはよくありますね。高瀬川にあった土佐四天王は、とうとう
    どこか引っ越したそうです。ペンキを塗られたり、それはもうひどい目に、、。
    なんでこんなことするんでしょうね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です