みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 5月 2012

k 35DSCF0047.JPG島原市内から車で40分程、島原半島の南にある原城へ向かいました。

この城は、1496年に有馬貴純によって築かれました。
不便な所にあります。やはり当時も不便だと思ったのでしょう、放棄し島原城を築城しています。後、原城は廃城となり、石垣や構築物も転用されました。
ところが、
1637年から1638年に天草四郎を総大将とした島原の乱が起こるのです。
組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げます。指導者の中には、朝鮮出兵や、関ケ原の戦いに加わった兵もいたといいます。しかし、3か月に及ぶ籠城に兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果てて、、、。乱の後、幕府はこの城を徹底的に破却しています。
城址から有明の海を見下ろす場所に十字架を背負った小さな三体の像を見つけました。
この城の地下に眠る二万ともいわれる民の象徴のような像、愛おしく心に残りました。

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     久留米から有明フェリーに乗り、40分ほどで対岸の島原半島に着きます。
数年前、レンタカーで島原半島を一周しました。長崎市内から島原へは鉄道でも一時間半は掛かります。かなりの距離、一日仕事でした。着きまして、すぐ、キリシタン墓地へと向かいました。そこにはローマ字表記のかわいらしいかまぼこ型の墓石が小屋の中に大切に保管されていました。悲しいことにいたずらが絶えず、このようにして守っているということです。
 つい数日前にタイムリーな記事がありました。

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キリシタン墓碑全国で202基確認

 南島原市教委は2日、安土桃山期から江戸前期までに造られたキリシタン墓碑の全国調査結果を発表した。北は京都市から南は熊本県八代市までの地域で202基を確認し、このうち66%に当たる133基が島原半島に集中していた。

 調査は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界文化遺産登録につなげようと、石造物研究者の大石一久・長崎歴史文化博物館研究グループリーダーに委託し、2006年から11年まで実施した。同市教委によると、全国のキリシタン墓碑の形状、年代などを詳細に調べたのは初めて。

 キリシタン特有の「長墓(ながばか)」と呼ばれる地面に伏せた形の墓は、雲仙市小浜町飛子名(とびこみょう)の土手之元(どてのもと)1号墓碑(1604年)が最古と判明した。

 島原半島はキリシタン大名有馬氏の領地。大石氏は「キリスト教伝来(1549年)から約50年後に島原半島で長墓が造られ始め、全国に広がった可能性が高い」と推測している。

 分布は本県が150基で最多。内訳は南島原市114▽雲仙市11▽島原市8▽大村市6▽長崎市、西海市各4▽東彼東彼杵町、川棚町、波佐見町各1。県外は京都府20▽熊本県14▽大分県9▽大阪府8▽佐賀県1。

 長墓以外では、仏教的な立碑に十字架などを刻んだ田原(たわら)城主・田原レイマンの墓(大阪府四条畷市)が1581年で最も古かった。

 キリシタン墓碑は江戸幕府の禁教政策で徹底的に破壊された。大石氏は「布教の根拠地だった長崎を中心に、現存する墓碑の数十倍は存在したと思われる」と話している。

 南島原市教委は調査報告書「日本キリシタン墓碑総覧」(A4判、638ページ)800部を発行。県内の全図書館に寄贈する。
長崎新聞  2012年5月3日