みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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k 35DSCF0047.JPG島原市内から車で40分程、島原半島の南にある原城へ向かいました。

この城は、1496年に有馬貴純によって築かれました。
不便な所にあります。やはり当時も不便だと思ったのでしょう、放棄し島原城を築城しています。後、原城は廃城となり、石垣や構築物も転用されました。
ところが、
1637年から1638年に天草四郎を総大将とした島原の乱が起こるのです。
組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げます。指導者の中には、朝鮮出兵や、関ケ原の戦いに加わった兵もいたといいます。しかし、3か月に及ぶ籠城に兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果てて、、、。乱の後、幕府はこの城を徹底的に破却しています。
城址から有明の海を見下ろす場所に十字架を背負った小さな三体の像を見つけました。
この城の地下に眠る二万ともいわれる民の象徴のような像、愛おしく心に残りました。

2 Responses to 島原のいにしえ、その2

  • この記事を読んで、壬生の島原を思い出しました。
    あちらは、引っ越しの時の大変さを「島原の乱」に例えられ、そういう名前になったんだ、という事でしたね、確か。
    三体の像。
    なるほど、海を見下ろすように建てられてるんですね。
    エラい所に建てたなあ、、と思ってしまいます。

  • あさぎさま
    コメントをありがとうございます。壬生、そうです。同じころ、の出来事だったのです。当時は、この島原に2万人を超す住民がいたそうです。今は、人っ子ひとりいず、、、足元にはその人たちが埋まっています。掘ると人骨ばかりが出土するそうです。この三体の石仏、現地の友達も初めて見つけたと言っていました。分かりづらいところに建てられています。

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