みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

月別アーカイブ

Monthly Archives: 9月 2012

t21DSCF0018.JPG

白金三光町興禅寺にある神保修理の墓です。

作家の星亮一先生主宰の戊辰戦争研究会に入っていまして、そこでの名前が「神保修理」なもので、とても気になっていた会津藩士でした。

今回、お墓参りができて、嬉しかったです。

神保家は藩内の名門の一つで、修理は日新館では秀才と謳われた。

藩主・松平容保は、藩内において修理と佐川官兵衛の将来を嘱望していた。慶応2年には長崎に派遣され、彼の改革によって教練を受けて生まれたのが、白虎隊である。


王政復古によって事態が急変し、不戦恭順論を将軍慶喜に進言したため、主戦派急先鋒である佐川官兵衛らと激しく対立する。


将軍に従って容保が修理を残し大坂城を抜け出して江戸へ脱出してしまうと、修理が恭順を進言したことに敗戦を招いた張本人として和田倉上屋敷に幽閉される。

容保との謁見も許されず、弁明の機会も与えられぬまま切腹を命じられた。

辞世の句


帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり

国外事情に通じていたため、多くの志士に影響を与え、倒幕派の若者たちに支持されていた。こうした接触が多かったことで非難されるきっかけともなったとされる。


夫の自刃後、妻の雪子も会津戦争において薙刀を手に奮戦し、壮絶な死を遂げている。


t2DSCF0048.JPG

  画像は、東京の恵比寿ガーデンプレイスの39階からの眺めです。高さ167メートル地上40階地下5階 塔屋1階だそうです。数年前に84階の森ビルに登りました。その半分ほどの高さとなるわけですが、それでもこの視界です。2時間ほど麻布を歩き、納涼懇親会の会場として訪れました。 

 明治20年、サッポロビールの全身である日本麦酒醸造が目黒村・渋谷村にまたがる地帯に工場を造りました。それがエビスビール、その運送用駅が「恵比寿駅」となったというわけですね。さて、数十年内には必ず来ると言われている直下型地震、大津波ですが、どうか、この風景が損なわれることなく、持ち堪えてくれることを願うばかりです。


t49DSCF0005.JPG

 画像の墓碑は、東京都港区南麻布四丁目の光林寺にある「ヒュースケン」の墓です。

 


 ヒュースケンと言えば、1856年(安政3年)に初代総領事タウンゼント・ハリスの秘書兼通訳として来日した駐日アメリカ総領事館の通弁官です。オランダ人だったそうですね。両親とともに米国に渡り帰化しています。

 


 1861114日(万延元年124日)に、プロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去しています。わずか28歳でした。

 

 幕府はヒュースケンの母ジョアンネに1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させました。ヒュースケンが、
1855年から下田に到着するまでの日本に向う南方航路の印象や、外交折衝や日本での見聞をつづった『ヒュースケン日本日記』(岩波文庫)は、幕末
外交史の貴重な資料となっています。

 

  墓碑の前には、珍しい洋酒が供えられ目を引きます。その他のお供えの品も多く、人気があるヒュースケンです。