みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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新島八重の岡山での講演会録が解禁されました。

 八重、来・岡山、明治4(1909)年5月です。


    白虎隊                       故 新島襄先生夫人 談

二十世紀の女子の諸嬢に、天保時代の私がお話することが出来ますのは、誠に幸福なことゝ思ひます。今日は丁度招魂祭であります故、白虎隊のことにつきましてすこしく申し上げます。
諸嬢もご存じの明治三年舊九月十一日は、白虎隊奮闘の日であります。白虎隊は十五十六歳の子供で、素より士族の子弟であります。そのうちには私が鐡砲のうち方を教へたものが三人もあります。そして白虎隊が最も奮戦いたしましたのは、十六橋といふ一方山道に沿へる要害堅固の場所で、白虎隊はこの橋をこわしてこゝを固守しましたので、官軍はそれがために、さゝ山の方からまはりました。白虎隊も遂にこの場を引き上げて、其の一小部隊の十六人は、官軍と共に瀧澤峠に進みましたが、丁度夜分で官軍と同じ道を進んでゐるとは夢にも知りませぬ。夜があけて見ると、右の肩に錦のきれをつけてゐた官軍が見えたのです。白虎隊の人々は驚いたが、官軍は子供の事とて毫も氣が附かなかつたのです。
瀧澤峠から會津の城下は目の前に見えます。飯盛山に入る道は甚だ細い間道を通つて行かねばならぬので官軍は大道路を通りましたのです。十六人の白虎隊は飯盛山に上つて、直に入城しようと暫く休憩した場所は墓地でそこから若松城がよく見えます。城中では米倉と城とが接近して居ますから、これに火をかけて米倉を焼きました。けれども其の焔が非常の勢で、丁度城に火をかけた様に思はれましたので、十六人の白虎隊は非常に落膽して萬事休矣で力抜けがしました。遺憾な事には年長者がいないので、誰も指揮するものがありません。相談遂に一決して、雑兵の手にかゝり梟首せらるゝよりも、潔く自殺する方がよいと、堅健気にも腹をさしちがへ、或は咽喉をさし貫き、枕をならべて逝きました。その時は午前の七時頃で、附近の百姓老夫婦が、避難する途中この場所を通りましたが、白虎隊の中の一人、咽喉をつきそこねて非常に苦しくなったものと見えて、水を飲んでゐました。百姓夫婦はこれを見て驚いて介抱しようとすると、早く殺してくれと、口にはいへないが、そぶりにあらはれてゐます。百姓夫婦はその不心得をさとし、鬢付油を疵口につけて繃帯し肩にのせて一民家に逃れ、いろいろ介抱しましたが、水も粥も疵口から吹き出まして、何の効能もありません。天の助けでせうか七日目には、疵も大分癒え、遂に全快の幸となりました。白虎隊の行動は、皆この人によりて知れ渡ったのです。(筆者註・これが飯沼貞吉です)十六歳の少年が、かくも美事なる最後をとげたかと申せば、維新前の母親は、たしかにしかとしたる精神をもって、子弟に忠孝の道をへたからであります。人の母でも子でも、我會津藩ではすべて童兒訓といふ本の序文によりて育せられました。それによって君につかへ、親につかふる道を知らせてゐました。當時の人は皆その序文を諳誦して實行させられました。母たるものはわが子に常に之を素讀せしめた。私は六歳の時に其の全文を覺えました。それ故にかの十五六歳の少年でも、國君あることを忘れぬのであります。
女子は男子と異りて意思が弱い、それが女子の缺點であります。女子は國の榮の基礎となるものです。故に意思を強く忍耐力心に富んでゐなければならぬ。堅い決心をもって學びの道を辿られんことを希望いたします。山陽高等女学校の出身者には、その様な方はありますまいが、世の誘惑は恐しいものです。白虎隊の人は母に分れ、又兄弟に分れて唯一人出陣しましたのも、皆童兒訓の序文によつて養成せられた結果であらうと思ひます。何でも決心は幼い時からの事であります。故に文明時代の母となり姉となつて、國家の義務を知らなければ、多くの人の身にかゝることもありますから、多年此學校にお學びになつた事が、社會に有益な事をなす基となる様に學ばれんことを望みます。

山陽高等女学校行餘會會報「みさを」より

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