ペリー提督・菓子好きで相撲に興味の「穏やかな男」 Published 2013年7月24日 | By hosblo01 幕末に「黒船」と呼ばれた米艦隊を率いて来航したペリー提督らの様子を記した文書が、広島県福山市の県立歴史博物館で見つかった。幕末から明治期の福山藩(広島県)の儒学者、江木鰐水(がくすい)(1810~81)の手紙を写したもので、ペリーの穏やかな物腰や乗組員がおどけて踊る様子などを描写。専門家は「ペリーの性格や一行の普段の様子を伝える文書は珍しい」としている。 福山市の旧家・窪田家から同博物館に寄託されていた文書で、50ページほどのうち16ページにペリーらに関する記載があった。江木が友人の儒学者に送った手紙を、その弟子で医師の窪田次郎が書き写し、窪田家に残されたらしい。江木の字体とは違っていた。 1854(嘉永7)年2月13日、ペリーが2度目に来航した際、軍学が専門の江木は一行の応接係だった奉行の家臣という名目で、同26日、横浜の応接所で一行と面会した。江戸幕府老中で福山藩主の阿部正弘の命を受け、応接係に随行したとみられる。 江木は「彼理(ペリー)ハ深沈トシテ 二度程笑ヒテ黙々トシテ居タリ 音色モ温ナリ」と、ペリーが物静かで、態度も穏やかだったと記述。副官(参謀長)のアダムスについては「軽率ニ見エ終始笑ヒテ」と記し、ペリーとは逆に良くない印象だったとみられる。また、ペリーらに日本食を出したところ、吸い物は好まなかったが、塩をかけたカキや卵、菓子を好み、余興の力士による相撲を珍しがったという。 同29日に江木らは、旗艦ポーハタン号に乗船。酒食をもてなされたが、あまり口に合わず、乗組員が顔に墨を塗って踊るのを見せられ「拙キ事ナリ」と酷評した。しかし、そうした娯楽の拙さは、軍備に力を入れているからではないかと米国への恐れも述べている。 明海大学の岩下哲典教授(幕末維新史)は「ペリー艦隊に関する文書は鉄砲や装備、艦艇に関する記述がほとんどで、一行の人間的側面を描いたものは大変珍しい」と話している。文書は8月2日から同博物館で公開される。 毎日新聞 7月10日(水)2時31分配信
この夏の読書 Published 2013年7月17日 | By hosblo01 最近、読んだ本です。やはり大河絡みの本が多いです。星先生の本など、再読もあります。松本さんの「神と語って夢ならず」、隠岐の島での幕末維新のお話、興味深く読みました。 「川崎尚之助と八重」、ベストセラーですね。あいこはんの「天誅組の変」の感想です。 天誅組といえば、奈良の僻地での事件であったため、なかなかその詳細など知り 得る機会がなく残念に思っていました。天誅組挙兵150年の今年、その蜂起から追討 を受け壊滅するまでを、丁寧に事細かく、そして、多くの史料などの引用文献も 充実し説明してくれている本書に出会えて、とても嬉しく思います。正に、教科 書のような親切な本です。著者の長年の研究成果がひしひしと感じられます。 5年後の明治維新の先駆けたる天誅組、その全貌が手に取るように理解できる貴重な一冊です。