Monthly Archives: 1月 2014
幕末の思想家、吉田松陰(1830~59年)の辞世の句が見つかったと、井伊美術館(京都市東山区)が23日、発表した。家族宛ての辞世の句と同じ文言で、専門家は「松陰が同じ句を複数人に宛てて書いたと考えられる」としている。
松陰は大老、井伊直弼(1815~60年)による「安政の大獄」で江戸に送られ、処刑された。筆まめで、獄中でも家族や弟子宛てに手紙などを書いていたことで知られる。
辞世の句は縦27・5センチ、横19・5センチの和紙に「此(これ)程(ほど)に思(おもい)定(さだ)めし出(いで)立(たち)はけふきく古(こ)曽(そ)嬉(うれ)しかりける(中略)矩之」(死を覚悟しており、今日やっとその日が来てうれしいという意)と記されていた。直弼の家臣で国学者、長野主膳の手紙の巻物に貼り付けられていたという。
同美術館の井伊達夫館長が昨年末、古美術品のオークションで巻物を見つけて購入し、複数の専門家に鑑定を依頼。鑑定にあたった佛教大歴史学部の青山忠正教授(日本近代史)によると、山口県に残された家族宛ての同じ文言の句にも「矩之」と記されていた。
松陰が自身の実名「矩方(のりかた)」を誤記したという説もあったが、今回の句にも「矩之」と書かれており、青山教授は「処刑を前に、実名を汚したくないと改名したのかもしれない」と指摘している。2014.1.23
天誅組といえば、奈良の僻地での事件であったため、なかなかその詳細など知り得る機会がなく残念に思っていました。天誅組挙兵150年の今年、その蜂起から追討 を受け壊滅するまでを、丁寧に事細かく、そして、多くの史料などの引用文献も 充実し説明してくれている本書に出会えて、とても嬉しく思います。正に、教科書のような親切な本です。著者の長年の研究成果がひしひしと感じられます。 5年後の明治維新の先駆けたる天誅組、その全貌が手に取るように理解できる貴 重な一冊です。
単行本: 272ページ
出版社: 淡交社 (2013/3/1)
定価、2,415円
ISBN-10: 4473038564
ISBN-13: 978-4473038562
発売日: 2013/3/1
商品パッケージの寸法: 20.8 x 14.8 x 2.2 cm
おすすめ度: 5つ星のうち 5.0
明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
今回は、地元の岡山倉敷に付いて書かせて頂きます。
倉敷や岡山は、かつて海でした。ご存じない方が多く、海だと知って目を丸くして驚かれます。岡山平野が人口造成地だったなんて、知らなかった~なんて調子です。それにつられてでしょうか、私も往時を偲んで想像を逞しくしている昨今です。
そこで、かつての吉備の穴海のことを調べてみました。奈良時代末期頃、日本の総人口は250万人程だとされています。平安末期でも400万人、鎌倉期で500万と言われています。人口密度は現代の約50分の1、居住スペース的には実にゆったりとしていますね。でも水田開発もままならず、食糧生産も限られていた時代ですから、この程度の人口扶養力しかなかったのです。しかし、海産物資源の潤沢だった吉備地方は恵まれていました。出雲地方の勢力を凌駕し、経済的な地盤の整った先進地域でした。
平安時代になると、備中守護領や寺社の荘園が次々と造営され、児島は平家の家人の根拠地として統治されるようになります。そんなわけで、いずれこの付近は源平合戦の舞台となり、ご存知の、玉島乙島に陣を構えた源氏方と柏島の平氏方の双方が海上で戦った水島の戦や、佐々木盛綱で有名な藤戸の戦いが起こります。
爪崎から沖合を眺望しますと、真向かいには、手の届く程の距離に右手から柏島、乙島、片島が控えています。脇に見えるのが狐島、その並びには都羅島(連島)が瀬戸内海への出口を塞ぎ、遠くは児島の由加の山塊が屏風のように立ちはだかっています。夕焼け時には、西日を浴びて波静かな海面は銀波で覆われます。