みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

月別アーカイブ

明けまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。

今回は、地元の岡山倉敷に付いて書かせて頂きます。

倉敷や岡山は、かつて海でした。ご存じない方が多く、海だと知って目を丸くして驚かれます。岡山平野が人口造成地だったなんて、知らなかった~なんて調子です。それにつられてでしょうか、私も往時を偲んで想像を逞しくしている昨今です。

そこで、かつての吉備の穴海のことを調べてみました。奈良時代末期頃、日本の総人口は250万人程だとされています。平安末期でも400万人、鎌倉期で500万と言われています。人口密度は現代の約50分の1、居住スペース的には実にゆったりとしていますね。でも水田開発もままならず、食糧生産も限られていた時代ですから、この程度の人口扶養力しかなかったのです。しかし、海産物資源の潤沢だった吉備地方は恵まれていました。出雲地方の勢力を凌駕し、経済的な地盤の整った先進地域でした。

平安時代になると、備中守護領や寺社の荘園が次々と造営され、児島は平家の家人の根拠地として統治されるようになります。そんなわけで、いずれこの付近は源平合戦の舞台となり、ご存知の、玉島乙島に陣を構えた源氏方と柏島の平氏方の双方が海上で戦った水島の戦や、佐々木盛綱で有名な藤戸の戦いが起こります。

爪崎から沖合を眺望しますと、真向かいには、手の届く程の距離に右手から柏島、乙島、片島が控えています。脇に見えるのが狐島、その並びには都羅島(連島)が瀬戸内海への出口を塞ぎ、遠くは児島の由加の山塊が屏風のように立ちはだかっています。夕焼け時には、西日を浴びて波静かな海面は銀波で覆われます。

1308419528

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です