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盗まれた対馬の仏像は交易品、韓国側主張に反論 郷土史家が著書
著書「盗まれた仏像」を手にする郷土史家の永留久恵さん=長崎県対馬市
日韓友好に取り組んできた長崎県対馬市の郷土史家、永留久恵さん(93)が、平成24年に対馬市で起きた仏像2体の盗難事件に関する著書「盗まれた仏像」を出版した。仏像は倭寇の略奪品だとして、韓国には返還に反対する意見がある。永留さんは「交易でもたらされた品と考えるのが最も適切だ」と反論している。
根拠として、対馬島主らが真珠や水銀を贈るかわりに、高麗から仏像や経典を受け取っていた歴史を詳細に記した。盗まれた2体のうち、海神神社にあった国指定重要文化財の銅造如来立像が対馬にもたらされた時代は倭寇の登場よりずっと前と強調。略奪したとされる倭寇も高麗末期に関しては大半が高麗の住民で、対馬の島民らではないと指摘した。朝鮮王朝の正史「朝鮮王朝実録」の記述から分かると説明する。
「韓国でも『仏像は日本に返すべきだ』と主張する人は多く、本当のことを知ってほしい」と話す。(産経ニュース2014.6.17 10:47)
今回、対馬に行くことになったのは、対馬名誉島民第一号、郷土史研究家、永留久恵先生にお会いすることでした。1920年のお生まれですから、今年94歳、お元気でいらっしゃるのだろうかと先生のお宅にお邪魔しました。その時の、歴史作家の星亮一先生との画像です。玄関から入って直ぐ左にある先生の書斎は本で埋め尽くされていました。ご高齢にもかかわらず、ご返答は支障がなくお元気そのものでした。永留先生は、真珠湾攻撃作戦に従軍、その後、戦艦霧島、空母飛龍へ、ミッドウェー開戦に参戦し、九死に一生を得て日本に帰られます。その後、学校教員になられ、多くの書籍を書かれておられます。淡々と語る永留先生、少しの時間でしたが、お会いでき、お話ができて良かったです。泊ったホテルのロビーカウンターや、書店は勿論、対馬空港売店お土産店にも至る所に永留先生の本がありました。島民の皆さんの誇りですね。
永留久恵
1920年対馬上県郡に生まれる。1940年長崎師範学校卒業。対馬で小・中学校教員、校長を歴任。1976年退職。長崎県立対馬歴史民俗資料館建設準備委員。1978年県立対馬歴史民俗資料館開館、同館研究員となる。1990年退職。「芳洲会」を結成。会長に就任。雨森芳洲の交隣精神を顕彰、日韓友好親善に活動し、現在に至る。受賞は1988年長崎新聞文化賞受賞。1996年西日本文化賞受賞。1998年文部大臣表彰。
主な著書に
『古代史の鍵・対馬』(大和書房1975)
『対馬の文化財』(杉屋書店1978)
『古代日本と対馬』(大和書房1985)
『海神と天神』(白水社1988)
『対馬古代史の研究』(名著出版1991)
『対馬の歴史観光』(杉屋書店1994)
『海人たちの足跡』(白水社1997)
『雨森芳洲』(西日本新聞社1999)
『海童と天童―対馬からみた日本の神々』(大和書房 2001)
『太平洋戦争の追憶』 真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦(交隣舎出版企画 2012)
『盗まれた仏像-対馬と渡来仏の歴史的背景 』単行本(交隣舎出版企画 2013)
『ヤマトとカラの狭間で』 (対馬国志 第1巻)(交隣舎出版企画 2014)
『武門の興亡と対馬の交隣』 (対馬国志第2巻)
『戦争と平和と国際交流 』(対馬国志第3巻)
平成23年には、最後の朝鮮通信使(第12回目:1811年)が来日してから200周年の催しがありました。
朝鮮と日本は古代から交易が盛んに行われていましたが、豊臣秀吉の朝鮮侵略により国交が途絶えてしまいます。江戸幕府(徳川家康)は、途絶えた国交を回復しようとして、対馬藩をなかだちにし交渉を重ねた結果、1607年に朝鮮国王は日本に使節を派遣してきました。これが江戸時代の朝鮮通信使の始まりです。通信使は徳川将軍の代替わりのたびに派遣され、1811年までの約200年間に12回来日しました。漢城(現在のソウル)を出発した使節団は、釜山港出帆のあと対馬を経由して、瀬戸内海を通り江戸(東京)までを5~8ヶ月かけて往復していたようです。対馬藩は、倭館(現在の釜山)でこの使節団を迎え、江戸までの道のり(往路・復路とも)を警護・案内しました。通信使一行は400~500名にも及び、学者・文人・医者・画家などが随行し、詩・書画など文化交流をはじめ学問、海外情報聴取等が盛んに行われたそうです。
通信使が通った江戸までの行程には、今でも様々な史跡や書・伝承文化などが伝えられています。こちら地元の岡山の牛窓にもたびたび朝鮮通信使が訪れています。