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京都非公開文化財公開に行ってきました。壬生の輪違屋は十年に一度の公開となります。一度も内部見学はしたことはありませんでしたので、今回、拝見できて感動しました。1階には近藤勇書の屏風が、2階には桂小五郎書の掛軸があります。
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輪違屋(わちがいや)とは、現在も営業されている京都の花街、島原の置屋兼お茶屋である。創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まる。置屋として創業当時の名は「養花楼」。
お茶屋兼業は明治5年(1872年)より。現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)にほぼ現在の姿となった。かつては芸妓等も抱えていたが、現在は太夫のみを抱え、太夫の教育の場であり、また、宴席の場として営まれている。表に「観覧謝絶」の札がある(いわゆる「一見さんおことわり」の店である)。
太夫道中に使われる傘を襖に貼り込んだ「傘の間」、本物の紅葉を使って型取りしたうえに彩色した壁が使われた「紅葉の間」が特徴的である。いずれももともとは当主の部屋であった。傘の間の傘には「高」(正確には髙島屋のマークの
「高」の字体と同じ)の文字が入っているがこれは当主の姓が「高橋」だったということに由来する。
浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(京都市下京区)に残された幕末の文書から、新選組が西本願寺に駐屯した当時の様子を示す記録が見つかった。本願寺史料研究所が2日発表した。駐屯を始めた直後、寺に多額の借金を願い出たり、隊士の待遇改善を副長の土方歳三(ひじかた・としぞう)自らが寺側に直談判したりするなど、組織維持に苦心したさまが浮かび上がる。
研究所が当時の日記やメモ書きを精査。新選組に関する記述が14カ所で見つかった。
新選組は1865(元治2)年3月、壬生(みぶ)寺周辺から西本願寺の北集会所に移り2年余り駐屯。記録には駐屯を始めた11日後の3月21日に「金五百両也」「新撰組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。同じ日に新選組が「相撲を開催するので見物に来ないか」と誘うなど気遣いも見せていた。ただ、当時このような借金は返されないことが多かったという。
6月25日には土方が寺の担当者と面談し、「1人1畳くらいのスペースしかなく暑くてたまらず、隊士からも不満が出て抑えられない」とし、阿弥陀(あみだ)堂(本堂、現在は重文)を50畳ほど借りたいと要求。寺側は応じず、集会所の未使用部分に畳を敷き、壁を取り外して風通しを良くすることで対応した。その日のうちに土方から「無理な願いを早速聞いていただき、かたじけなく思う」とする礼状が届いていた。
一方、寺側の警戒ぶりもうかがえる。新選組が来る前日の3月9日には、寺の各所に「隊士に不作法な態度は取るな」「隊士と出会っても直接に対応するな」と通達。また、寺のトップである門主の外出ルートが北集会所に近いため「(北集会所から離れた)車御門から輿(こし)を通過させる」としていた。
同研究所の大喜(だいき)直彦・上級研究員は「西本願寺に駐屯していた頃は新選組の結束力が弱まり始める時期。土方が引き締めに必死になる様子が浮かぶ」と話している。研究所は今回の成果を受けた公開講座を11月11日に築地本願寺(東京都)、12月12日に聞法会館(京都市下京区)で開く。申し込み方法などは後日、本願寺史料研究所のホームページに掲載する。問い合わせは本願寺派(075・371・5181)。【花澤茂人】
◇「新選組」隊士たちの具体的な姿がきちんと裏付けられた
「新選組」などの著書のある歴史家の松浦玲さん(日本近代史)の話 西本願寺側の当時の記録はこれまでほとんど知られていなかった。想像するしかなかった隊士たちの具体的な姿が時系列も含めきちんと裏付けられ、大変興味深い。
◇新選組の動き
1863年 2月 新選組の前身「浪士組」が京都に到着(文久3)し、壬生寺の周辺を屯所とする
1864年 6月 池田屋事件。7月には禁門の変で薩摩(元治元)、会津藩などとともに長州藩と戦う
1865年 3月 壬生寺周辺から屯所を南の西本願寺に(元治2)移す
1867年 6月 西本願寺から現在のJR京都駅に近い(慶応3) 不動堂村の新しい屯所へ移る
10月 徳川慶喜が大政奉還
1868年 1月 鳥羽・伏見の戦い。旧幕府軍が薩摩、(明治元) 長州藩など新政府軍に敗れ、新選組も江戸へ敗走
4月 近藤勇処刑
1869年 5月 函館・五稜郭の戦いで土方歳三戦死(明治2)
毎日新聞 2014年09月02日 20時07分