みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 10月 2014

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 倉敷駅前のアリオ・ショッピング内にあった大型書店の「福屋書店」がこの夏に閉店してしまいました。かつて、宮脇書店が駅ビルに入っていましたが、駅ビル自体が撤去のため、二年ほど書店なしの生活を余儀なくされていました。そして、2011年の秋、チボリ公園の跡地にアリオができ、福屋書店が入り、このブログにも大喜びで書き込みしました。懐かしい「ガリレオの泉」、当時の画像を再びアップしています。「ガリレオの泉」とは、椅子に座って自由に本が読める贅沢な空間で書店の奥にありました。三年ほどの幸せでした。全国でも書店の減少は拍車を掛けています。本を読まなくなった。手にしているのはスマートフォン(本)、アマゾンで簡単に買える、書店には行かない、、、悲しい現実です。

 世界で最も読書量が多いのはユダヤ人とのこと。子供の頃から古典を暗唱できるまで読み、多読で、そのため知識も豊富。ユダヤ人がエリートだという所以です。日本人の本離れは、民族の知力低下に繋がります。読書が「知力」を押し上げるのです。ある学校では、本を持って来させて、始業前に「10分間の読書タイム」をしています。良い習慣付けとなって欲しいです。みなさんも、朝の読書タイムを持ちませんか?

 

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921日の京都史跡めぐりの続きです。

壬生から南下して油の小路を進みます。

京都駅の手前、本光寺は、伊東甲子太郎が暗殺された場所のすぐ近くにあります。

住職だつた尼さんが亡くなり、今は主なき寺となっています。ご近所の方が鍵を預かっておられて、門の中にある伊東甲子太郎が死の際に、もたれ掛った門派石(題目石塔)を特別に見せて頂きました。

伊東甲子太郎

水戸学を学んで勤王思想に、そして、北辰一刀流剣術伊東道場に入門力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称す。元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。上洛の年(甲子)に因んで伊東甲子太郎と称する。容姿端麗、巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かった。伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、勤王(倒幕)を説こうとする方針をめぐり、矛盾が生じていた。そのため、新選組から離れて、同志14名と共に御陵衛士を結成する。東山高台寺の月真院に本拠を置いたため、高台寺党と呼ばれた。

近江屋事件の3日後の慶応31118日(18671213日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年33

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10月11日(土曜日)は、星亮一先生の講演会を聞きに上京します。
当日の詳細なる行程です。
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11:00 開場 明治学院大学
11:30 第1 部 記念礼拝
合唱等の演奏を予定
第2 部 星 亮一氏による講演会
13:00 第3 部 懇親会(星亮一氏もご参加の予定)
パレットゾーンor 本館10 階大会議場(予定)
参加費 1,500 円
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さて、その井深梶之助とは、、
1854年に、会津に生まれる。名門の生まれで、父は、会津藩校「日新館」館長を勤める会津藩きっての知識人であった。「戊辰戦争」が勃発し、年齢がわずかに足りず白虎隊には加われなかったが、梶之助は藩主の松平容保の御小姓役として若松城籠城戦を闘った。朝敵と蔑まれ、敗者の運命を背負わされた若き日の会津での経験から、博愛に満ちた仕事を果たす人が次々と輩出したのは、決して偶然ではないのでしょう。

18歳の時、梶之助は藩命で訪ねた横浜で、米国人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンに出会い、その英語塾に入って英語や神学を学び、二十歳の時に洗礼を受けます。迫害も覚悟の上の大きな決断。ブラウン塾はのちに東京一致神学校へと姿を変え、更に、1887年に明治学院へと発展する。初代学長はヘボンであり、井深は二代目学長へと就任するのである。
ヘボンの信頼は篤く、この日ヘボンは壇上で手ずから井深に明治学院の鍵を渡し、こう挨拶しました。「井深氏はその名の示す通り、“梶”であります。私は明治学院という船にこの新しい“舵”をつけました。この船はこれからどのような方向に乗り出しましても、決して針路を誤りません」と。

星先生から、更に感動を呼ぶ井深梶之助のお話をお聞きしたいと存じます。