みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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921日の京都史跡めぐりの続きです。

壬生から南下して油の小路を進みます。

京都駅の手前、本光寺は、伊東甲子太郎が暗殺された場所のすぐ近くにあります。

住職だつた尼さんが亡くなり、今は主なき寺となっています。ご近所の方が鍵を預かっておられて、門の中にある伊東甲子太郎が死の際に、もたれ掛った門派石(題目石塔)を特別に見せて頂きました。

伊東甲子太郎

水戸学を学んで勤王思想に、そして、北辰一刀流剣術伊東道場に入門力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称す。元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の仲介で新選組に加盟。上洛の年(甲子)に因んで伊東甲子太郎と称する。容姿端麗、巧みな弁舌から、伊東に対する人望は高かった。伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、勤王(倒幕)を説こうとする方針をめぐり、矛盾が生じていた。そのため、新選組から離れて、同志14名と共に御陵衛士を結成する。東山高台寺の月真院に本拠を置いたため、高台寺党と呼ばれた。

近江屋事件の3日後の慶応31118日(18671213日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年33

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