みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 2月 2015

山里曲輪から少し離れた出枡形へ登る階段の横に、

太平洋戦争当時の機銃掃射による弾丸跡が石垣に刻まれていました。

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天守閣の裏手に淀君と秀頼の自刀の地があります。この場所は、最近になって特定されたそうで、碑と説明板が建てられていました。天守閣の登り口は沢山の観光客の方がいますが、北側のこの山里丸あたりは人気もなく、秀頼・淀君の石碑は、訪れる人も少ないのでひっそりとしていました。2人が自害した地面は地表から約4メートルの深さに埋もれ、落城時の火災を示す焼土層がその上に堆積していることが確認されました。山里丸は、秀吉が千利休らと茶会を催した茶室のあった場所とされています。茶室の遺構からは当時の陶磁器が見つかっていますDSCN1595

pppDSCN1624      大阪城は、1583年(天正11年)、石山本願寺の跡地に秀吉によって築かれました。豊臣時代の大阪城は、ルイス・フロイスの『日本史』によると、やねは金箔瓦で覆われていたそうです。壁は黒漆塗りの下見板張り、5階には、黄金の茶室があったといわれています。絢爛豪華な城でした。しかし、30年後の大阪夏の陣で消失します。その見事な焼けっぷりは、京都の高台寺に住む寧々(ねね)にも見えたと言います。その後、徳川政権により再建されましたが、幕末になって鳥羽伏見の戦いで再び焼失してしまいます。現在、我々が目にする3代目天守閣は1931年に大阪市により再建されたものです。当時では最新鋭の鉄骨鉄筋コンクリートの技術が用いられました。太平洋戦争では、城内に大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられました。そのため、米軍の爆撃目標となり、終戦前日の8月14日に1 トン爆弾が多数投下されましたが、大阪大空襲を奇跡的に生き残り、何度か修復を経て現在に至っています。現在、登録有形文化財に指定されています。