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江戸時代初期の寛永19年(1642年)、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集散地として発展した歴史を持つ倉敷は、倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。また、1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。(ウィッキペディアより)
山中鹿之助の墓
京都市の本満寺(出町柳駅から徒歩15分)、境内裏の墓地に戦国時代の武将山中鹿之助の墓があり、その碑です。
山中鹿之助、以下、ウイッキペディアより転載します。一般には山中鹿之助(しかのすけ)と表記されているが、これは誤りで、実名は幸盛(ゆきもり)、通称は鹿介という。山中 幸盛(やまなか ゆきもり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、戦国大名尼子氏の家臣。生涯全てをかけて主家・尼子家に忠誠を尽くして戦い続け、その有り様が後人の琴線に触れ、講談などによる潤色の素地となった。特に江戸時代には忠義の武将としての側面が描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が創られていく。これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、三日月に向かって、「願わくば我に艱難辛苦を与えたまえ」と祈った話が教科書に採用された。墓所については、岡山県高梁市などにある。 (京都市の本満寺になぜ墓があるのか?)