みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 6月 2016

大阪市北区堂島3丁目、NTTテレパークの南側に「五代友厚製藍所」「明治天皇聖躅碑」「大村藩蔵屋敷跡」の3つの碑が並んでいます。

なぜ、五代友厚は製藍所を大村藩蔵屋敷跡に設けたのでしょうか。当時、インドから粗悪な藍を大量に輸入していて、国産藍は大打撃を受け作付面積は激減し、日本から消え去ろうとしていました。そして、五代が立ち上がります。その機械化された工場からの煙、東の空からは五代も尽力した造幣局からの煙、幕末維新で荒廃した大阪に、その煙は希望の狼煙(のろし)となりました。徳川幕府傘下の大名蔵屋敷はこうして明治維新を迎えて破却され、跡地は大阪の発展に貢献しました。

大阪には数多くの五代友厚の功績が残されています。

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他分野の本も読んでおります。最近の新書のネーミングは購買欲を刺激してくれますね。pppDSCN3997

五代友厚邸跡(現・大阪科学技術館)

五代友厚の大阪最初の自邸跡。昭和35(1960)に取り壊され、現在は大阪科学技術館となっています。

 五代友厚(1836~85年)がかつて住んでいた邸宅の跡地に、大阪科学技術センター(大阪市西区)が建っている。「あさが来た」ブームにあやかり企画展を準備していたところ、近隣住民が譲り受けた邸宅の鬼瓦も今月「発見」され、新たな注目を集めている。縦約40センチ、横約55センチ、高さ約30センチで、力強い目に鋭い角が印象的だ。明治4~17年に五代が住んでいた邸宅に使われていた。持ち主は、五代邸の向かいにある住宅で生まれ育ち、五代邸を取り壊す際に祖母が記念に譲り受けたものという。取り壊し前に一度入り、「とにかく大きくて、襖(ふすま)の向こうに可動式の隠し階段があり、忍者屋敷みたいだった」とのこと。同館などによると、五代は市内で6回にわたり転居。邸宅に住んでいた当時は、五代の人生で特に激動の時代だったという。

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