みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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Monthly Archives: 9月 2016

やっと晴れの日が来ました。今年は台風が多いです。次回作のため、明日は高知に撮影に行って参ります。この画像は、戊辰研の高知集会の時の画像です。「龍馬伝」の前年ですから、2009年です。7年前ですね。「才谷屋」の跡地にできた喫茶店「さいたにや」です。作家の星亮一先生が写っています。
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坂本家本家跡地に立つ喫茶店 才谷屋跡(COFFEE HOUSE さいたにや)/高知県高知市
高知城下でも豪商であった才谷屋は、龍馬の坂本家の本家。現在その跡地の一角には喫茶店「COFFEE HOUSE さいたにや」が営業しており、全国の龍馬ファンが訪れる有名店となってる。坂本龍馬の本家である才谷屋は、坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が寛永六年(1666)に長岡郡殖田(うえだ)郷才谷村(現南国市)より高知城下本丁筋三丁目(現上町三丁目)に移住し、妻佐耶(さや)と二人で借家で質屋を、始めたのが始まりで、屋号は出身地の名より才谷屋とした。後に酒造業、諸物品売買にも手を広げ、才谷屋の基礎を作った。二代正禎(まさよし)は本丁筋年寄役を命ぜられ、三代直益のころに才谷屋は、場下屈指の豪商となり、次男直清に才谷屋を継がせ、長男直海(なおみ)を明和七年(1770)に本丁筋一丁目(現上町一丁目)に郷士株を取得し分家させ、郷士坂本家の祖とした。郷士坂本家はその後八蔵直澄(なおずみ)、八平直足(なおたり)(養子)、権平直方(なおかた)と続き、坂本龍馬直柔(なおなり)は天保六年(1835)11月15日 権平直方の弟として誕生したのである。

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元暦元年(1184)12月、源平両軍が藤戸海峡をはさみ対陣していた。船を持たない源氏に対し、平氏は船を漕ぎ出し渡ってこいと挑発する。源氏の武将たちは無念の思いで海を眺めるばかり、、戦況はこう着状態となった。この沈滞をうち破ったのが佐々木盛綱である。対岸に通じる一条の浅瀬を教えられ、この岩鼻から馬を乗り出し、一気に海中を押し渡り、平氏を屋島へと敗走させたのである。藤戸合戦の三ヵ月後の文治元年3月、平氏一門は壇ノ浦で滅び去った。倉敷・玉野線(県道22号線)近く、周辺には浮洲岩、藤戸寺、経ヶ島などの関連史跡がある。

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地元の史跡巡りをしてきました。雪舟誕生の地、、備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。この宝福寺にて、涙でネズミの絵を描いたという伝説が生まれる。
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雪舟は、応永27年(1420年) – 永正3年8月8日(1506年))、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。

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