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大阪阿倍野墓地の「長州藩死節群士之墓」です。禁門の変に敗れ千日獄舎で亡くなった長州藩士たち、この碑の前方に、「長州藩殉難者顕彰碑」もあります。左後方にアベノハルカスが見えています。真ん中にある大きな「顕彰碑」の2つの碑を囲んで、48基の墓碑が並んでいます。禁門の変は前年の八月十八日の政変で京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。戦火により約3万戸が焼失した。大砲も投入され激闘の末、長州藩勢は敗北し尊王攘夷派は真木保臣ら指導者を失い大きく後退した。
今から20年前の6月8日、大阪の附属池田小学校で学童8人が殺害され15人が負傷をした悲惨な事件がありました。6月8日で20年目を迎えます。その当時2年生だった子供たちは28歳になりますが、その当時の状況を忘れてはいないと言います。
犯人の先祖は旧薩摩藩の下級武士。父親は薩摩の血を引き教育は厳格で、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを持ち続け、そして暴力も多かったといいます。
親子間の確執は昔も今も変わりなく、コロナ禍で家に籠った生活が多くなった今、なおさら親子の争いが絶えない家庭が増えているといいます。その反応が、外に向けての犯行に繋がらなければいいのですが。
さて、本日「ザ・戊辰研マガジン2021年6月号 Vol.44」を発刊しました。どうぞご覧ください。
龍馬の手紙、複製あったぜよ…後藤象二郎を激励
幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかった。
大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。
手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。
龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。
持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。
後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。
高知の日曜市で幕末の志士の手紙が古い手紙の中に混じって売られていたと聞いたことがありました。見つけ出した人もすごいですが、そんな貴重な手紙が、今だに発見されるということもすごいですね。
今回の龍馬の新しい手紙の発見は、まだまだ発見されるのではと期待を持たせてくれるニュースです。