みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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今年もよろしくお願い申し上げます。元旦の倉敷美観地区です。タイミング良く、通りかかると二頭の素晴らしいワンちゃんがポーズを作ってくれて待っていました!今年は良い年になりそうです!!

●「東北を置き去りにした明治維新」、切れ味鋭い論集、明治150年、必読の論集です!
●「病気にならない人は何を食べているのか」、ひき肉はご法度、卵と納豆が認知症予防の最強の組み合わせ、40才過ぎたら空腹感が大切、コンビニは避けること。
●「中国の崩壊」、中国は国家戦略が皆無、日本に有利に動き始めている。今後、ベトナムやアジア諸国、インドと連帯し、新たな時代を日本が切り開いていく、海外に飛躍する環境は整った。
●「風邪薬は飲むな」、ワクチンはインフルエンザに効かない、抗癌剤もほとんど効きません、、と、この著者のベテラン医師が書いている。とても面白い。
●「名門校の人生を学ぶ授業」、名門校と呼ばれる学校の先生は異口同音に言う。「今すぐには価値がわからなくていい。それが将来、いつか芽目を出すかもしれないし、出さないかもしれない。そういう気持ちで教育している」と。
●「肺炎は口で止められた」、人間は口で生きている。「入れ歯」でよみがえったお年寄り、幸せは口が作る。

11月12日に京都国立博物館の「国宝展」を見学して来ました。その時、一番印象に残った物が「金印」です。教科書に載っていますね。福岡市博物館・所蔵のこの金印は、江戸時代の天明年間(1784年)に、甚兵衛という百姓が偶然発見した物です。漢の皇帝が委奴国王に与えた印で、「漢(かん)の委(わ)(倭)の奴(な)の国王」と刻まれています。実際は、土に埋もれていたのではなく、巨石の下の匣(はこ)の形をした中にあったと言われています。金印は限りなく金に近く、22.4Kで中国産の金と推定とのこと。質量108.7g、一辺2.3センチの大きさです。
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日本国内の博物館にはこの金印から型をおこしたレプリカが4点あり、手に取れるくらいの距離で観察すると違いが良く分かるそうです。字の彫り込みと、蛇の鱗を表した魚子(ななこ)とよばれる鏨(たがね)の鋭さが本物とレプリカでは比較にならない。本物のほうがシャープで、文字の彫り込みのミゾは、今しがた彫り上げたような艶(なま)めかしさがあります。中国の歴史書『後漢書』には、建武中元二(57)年に、光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれており、この「印」が志賀島で見つかった金印と考えられるのです。金印は古代中国の歴史書に記されたもので単に日本だけの遺産ではありません。同時に発見者や発見場所に謎が多い分だけ、ロマンが香るのかもしれません。福岡市博物館HPより
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戊辰研マガジン【第2号】発刊しました。
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これからどんどん記事が増えていく予定です

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(みちこの幕末日記も次号から登場します)

三十三間堂のすぐ近く、「養源院」にも行きました。


秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興。以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。本堂の左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。

京都国立博物館の近くの史跡を巡りました。耳塚、京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。(ウイッキペディアより)

京都国立博物館の見学後、近辺の史跡巡りをしました。

「坂本龍馬など土佐志士寓居跡の石碑」、

この地には、「大仏」がありました。寺の名を、「方広寺」といい、壮大な広さの社寺で、幕末、この近くに土佐出身の志士が住んでいました。
龍馬の妻であるお龍の回想録「反魂香」に書かれています。
「大仏南の門の今熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、
平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」とあります。

東山区新瓦町東組 三十三間堂南大門東
三十三間堂を南に下がり突き当たり左に折れてすぐ。