みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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三十三間堂のすぐ近く、「養源院」にも行きました。


秀吉の側室・淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の時(文禄3年・1594年)に創建した寺。一度は焼失したが、淀殿の妹で、徳川秀忠の夫人であったお江の願いにより、元和7年(1621年)に伏見城の遺構を移築して再興。以降、徳川家の菩提所となり、2代秀忠から15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られている。本堂の左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下1000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもので、武将達の遺体は残暑の残る8月から9月中旬まで放置されていたと言われ、そのため今も生々しい血の痕があちこちに残る。

京都国立博物館の近くの史跡を巡りました。耳塚、京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。昭和44年(1969年)4月12日、「方広寺石塁および石塔」として国の史跡に指定された。当初は「鼻塚」と呼ばれていた。しかし林羅山がその著書『豊臣秀吉譜』の中で鼻そぎでは野蛮だというので「耳塚」と書いて以降、耳塚という呼称が広まったようである。2万人分の耳と鼻が埋められている。当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養しその霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された。(ウイッキペディアより)

京都国立博物館の見学後、近辺の史跡巡りをしました。

「坂本龍馬など土佐志士寓居跡の石碑」、

この地には、「大仏」がありました。寺の名を、「方広寺」といい、壮大な広さの社寺で、幕末、この近くに土佐出身の志士が住んでいました。
龍馬の妻であるお龍の回想録「反魂香」に書かれています。
「大仏南の門の今熊の(野)道」の河原屋五兵衛(瓦屋の五郎兵衛の意か)の隠居所を借りて、中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶摩)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、
平安佐輔(安岡金馬)、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」とあります。

東山区新瓦町東組 三十三間堂南大門東
三十三間堂を南に下がり突き当たり左に折れてすぐ。

 

京博での写真撮影許可の場所です。よく観るとレプリカですが、ゆったりと鑑賞できて落ち着けるスペースとなっています。

京都国立博物館にはしばらく行っていませんでした。今年は戊辰戦争の展示があるというので久しぶりに見学に行きました。平常展示館として、古いレトロな建物の奥に平成知新館ができていました。設計は、ニューヨーク近代美術館 新館、東京国立博物館 法隆寺宝物館、豊田市美術館などを手がけた世界的建築家、谷口吉生氏です。直線を基本とする展示空間で、とても斬新ですね。免震構造、最新の映像設備を誇る講堂、庭を眺望できるレストランなど、魅力に満ちた展示館となっていました。
京都国立博物館は、 明治30年(1897)に「帝国京都博物館」として開館し、今年、2017年は120周年という節目の年を迎えています。

料亭「魚三楼」

奉行所西側の料亭「魚三楼」には、表格子を貫く弾痕が今も生々しく残っている。鳥羽伏見の戦いによるもので、幕府軍による砲弾と一致すると言われる。

150年前の木の桟が良く残っていたと思います。