みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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「開運、お宝鑑定団」を見ています。

梁川星巌(やながわせいがん)、出てきました。頼山陽亡き後の幕末の大詩人、
思想家尊王攘夷論をいち早く出し、吉田松陰・西郷隆盛に訓示を述べ、
安政の大獄前、コレラにして死す。詩人でもあったので、京都の民は死に
(詩)上手と噂しあった。簡潔にうまく説明していました。この番組は幕末物が
よく出てくるので必見です。その星巌の書画掛け軸三点、170万でした。

以下、龍馬の金策日記―維新の資金をいかにつくったか
 竹下倫一  祥伝社新書   760+税
                     印象に残った箇所です。

龍馬の手紙、ある人が最近になって高知で発見、それも日曜市で購入とのこと。
私もよくフリーマーケットなどに行きますが、古手紙の束なんて結構
売っているんです。それも毛筆の達筆なものが、、読めないので
お手上げですが、龍馬の手紙が日曜市で売られていたなんて、
売った側も分からなかったのでしょう。

龍馬の生涯は、その輝かしい業績と同時に、数多くのトラブルや困難続きだった。
普通の人が、一生に一度遭遇するかどうか、というような事故や事件に、たった
三、四年のうちに何度も何度も巻き込まれている。普通の人なら、一年や
二年ふさぎ込んでもおかしくないトラブルの連続。その災難の間に、大きな事件を
やってのけているのだ。龍馬が、もっとも優れていた面は、「決して諦めないこと」
だったのではないだろうか。

龍馬には、幕府が倒れた時、どういう世の中にしたいのか、という具体的な
イメージがあった。西郷・大久保・木戸・高杉などは、幕府を倒すことばかり
目が行き、龍馬ほど具体的なイメージはもっていなかった。彼らと龍馬が
明らかに違う面を考えた時、ある一つの事実が浮かび上がる。明治の元勲たちの
ほとんどは長男だったことに対して、龍馬だけは次男だったのである。

江戸時代の男にとって長男に生まれるか否かでは、決定的な違いがあった。
長男はよほどのことがない限り、親と同じ程度の行き場所は与えられた。
しかし、次男以下はよほどのことがない限り世に出て行くことは難しい。
龍馬が他の志士たちと比べて著しく経済観念が発達していたのも、龍馬が
次男だったことが一つの要因ではないか。次男は身を立てるすべてを自分で
身に着けなくてはならない。その気概があったらこそ、浪人の身でありながら、
商社や艦隊までも作る事ができたのではないだろうか。

著者は、龍馬の金銭的な部分のみを追究しているにもかかわらず相当苦労した。
その当時の感覚を掴む難しさ、資料を集めて整理するにも大変な手間がかかる。
今よりも、もっと情報が整理されていない昭和三十年代、龍馬の人生、幕末の
時代背景を掴み取って超一流の時代小説の傑作「竜馬がゆく」を執筆された
司馬遼太郎の偉大さを再認識した。

では、また。

今日は寒い一日でした。
みなさんはどう過ごされたでしょう。
県内で一番大きな書店に行って来ました。
紀伊国屋もあったのに、なくなっていたのはショックでした。
京都の書店・丸善は去年閉店して、3月に前を通ったら
カラオケ屋になっていてアゼンとしました。
本屋が潰れると心に大穴が開きます。(@_@;)

さて、今日、仕入れた本です。

「教科書が教えない歴史」産経新聞社 1~3まで、一冊500円は
安い、それに内容も興味を引くものばかりです。
誇るべき日本史の語り手、司馬遼太郎、やっぱりね、きちんと
書かれています、司馬さんは産経新聞の記者でしたものね。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4594048862.01.LZZZZZZZ.jpg

「対談集「気骨」について」 新潮文庫  438円、これも安い。
 城山三郎と、吉村昭、辺見じゅん、澤地久枝、、らとの対談集、
 吉村昭との対話内容が読みたくて買いました。
http://images-jp.amazon.com/images/P/410113331X.01.LZZZZZZZ.jpg

「歴史の夜咄(よばなし) 司馬遼太郎 林家辰三郎」 小学館文庫 552円+税
 国民的作家・司馬遼太郎と、地方史・部落史・女性史など新しい視点から
 数々の研究を発表してきた歴史学者・林家辰三郎とのスーパー対談集。
 話は古代から江戸時代までに及び、平易な語り口で縦横無尽に論じられていま
 す。
http://images-jp.amazon.com/images/P/4094080678.09.LZZZZZZZ.jpg

「図説 歴史の意外な結末」 PHP 500円
 幕末関係では吉田松陰・ペリー・井伊直弼・勝海舟・坂本龍馬が出ています。
 図で分かりやすく描かれているので見ているだけでも楽しめます。

4月に入ってツバメも飛来しているのに、まだまだ寒い毎日です。
お風邪など引かれておられませんか、気をつけて下さいね。

さて、最近、新書が面白いですね。
出版社も新たに参入していて、各々出版社も特色があり
新刊書を選ぶのにも楽しいです。

「大江戸曲者列伝 幕末の巻き」 新潮新書 野口武彦・著、
天皇・将軍・火消し・スパイ・尊王・佐幕・開国・攘夷、、、
歴史はドタバタで作られる。四十名ほどの人物を簡潔に読み易く
まとめています。思い入れのある人物が曲者に入っているので
当初、買うのを控えていましたが、やっぱり買ってしまいました。

「長州戦争」 中公新書 同じく 野口武彦・著
どんな戦争も後世へのメッセージを残している。長州戦争は徳川幕府
の命取りになった戦争である。勝利した長州藩は、後に「防長回天史」
を編纂し、この戦争を明治維新への大きな一歩と位置づけた。しかし、
幕府側はこの敗戦を総括するに至らず、敗戦の責任者すら明確でない。
幕府は何故戦争に踏み切り、どう戦って負けたのか。開戦前夜から
敗戦処理までを克明に描き、長州戦争が現代に残したメッセージを読む。
じっくりと読み進めています。

さて、先日、新潟に友人が行きまして、とある蕎麦屋で、あの
フルベッキ博士の集合写真のコピーと写っている人物の説明書を
もらってきて、お土産にもらいました。以下、これですね。
みなさん、ご存知だと思います。その蕎麦屋さん、幕末好きなのね。
http://tadazzi.at.infoseek.co.jp/private/verbeck/verbeck.htm

では、また。

司馬遼太郎、没後10年で、いろいろと新刊も出ています。
今日は、その一冊で少し前のものですが・・。

「司馬遼太郎という人」 和田宏 文春新書 720円+税

「竜馬がゆく」の登場人物は、1149人にのぼるという。

「おりょうが竜馬のために菊の枕を作ったなんて、ぼくの作り話だぞ」
この場面はおりょうの性格を浮き立たせてみごとである。しかし、
これは創作で事実ではない。こういう仕掛けはこの作家に山ほどある。
大衆演劇の某作家が、なんとこの菊の枕の話を使ったという。それを
司馬さんが怒った。自分の創作を断り無く使われて腹を立てたのではなく、
こういうことを無神経に繰り返していると、いつの間にか
それが史実として扱われるようになるのを恐れたのだ。
司馬さん自身、史料調べをしていて、そのような『史実」にしょっちゅう
出くわし、当惑していた。独自の歴史観の方は、盗用されても
怒ったのは見たことがない。「また、ぼくの話を使っているよ」と
苦笑する場面もたびたびあった。司馬さんの創作を史実と
間違えた人が大勢いるに違いない。「竜馬がゆく」は、
あくまで司馬遼太郎の「坂本竜馬」であって、伝記ではない。

「竜馬がゆく」の連載を開始して、ちょうど一年経った時、
突如「閑話休題」と称して、時代背景の解説を入れる。このとき、
作家の中で何かが弾けた。いままでとは異質の大作家司馬遼太郎
の誕生の瞬間であった。

以上、特に印象に残った箇所でした。中身の濃いい一冊です。
是非、お読み下さい。

風がきつくて、寒さがぶり返してきたようですね。
風邪に気をつけて下さい。

さて、出先からの帰り、いつものように大型書店に行くと
「関西 大人のウォーカー」3月号 580円 
司馬遼太郎の世界を歩く  が出ていました。

司馬遼太郎が亡くなって10年経つのですね。
その特別企画本、580円だったらお求め安いので是非一冊!

中学生の時、図書館で一度にドサッと借り出して
声に出して読んでいたそう。家には持ち帰らず徹底的に
記憶するような読書で、閉館時間が過ぎてもなかなか帰ら
ないので困ったと当時の出納係の思い出話が載っています。
人が珈琲一杯飲む間に文庫本を一冊読み終えてしまうと
いうのも本当の話です。

写真で育った場所と、それを下地にして著作した本の紹介とか
載っていて、西長堀のマンモスアパート、ここで竜馬が書か
れたのですね。
なんと司馬さんの前の住人は森光子、、文化勲章受章者が
同じ部屋の2LDKから出たとは、なんともおそるべしアパート、
この10階の高い場所からの俯瞰が、司馬流・歴史小説を
昇華させてくれたのですね。

「竜馬がゆく」の月額原稿料は100万円、なんども貰いすぎ
だと断られたそうです。この破格の原稿料は、産経新聞の
記者だった司馬を『我が社から生まれた直木賞受賞者の
気鋭の才能に投資を惜しんではならじ」という当時の社長の
思いがあったとのこと。ほとんど資料代で消えたようですが・・。

そして、東大阪の司馬遼太郎記念館、その書斎には未完に
終わった「街道を行く 濃尾参州記」のための資料690冊が
今も残してある。
館内のあれこれを手伝うボランティア約230人が地元の住人、
「ここにいると全国の人と会える。先生は凄い人ですね」。

蔵書は手にとることはできない、見て終わるだけなら10分
ぐらいで終わってしまいます、が、ここで5時間いる人も
あるという。
「ここは見せるのではなく感じる記念館です。来られた方が
司馬遼太郎の世界に身を置きつつ自由に考えて頂くのです」
この4年間で17万5000人、観光地でないこの地に全国から
わざわざ訪れるという。近隣の街角では菜の花忌に合わせて
あちこちに菜の花のプランターをあしらう動きが広まっている。

私も、司馬遼太郎記念館とよく散歩をされたコースを歩きました。
どんな博物館よりも強烈に心に焼きついています。図書館の本
ではない、司馬さんが手にとって読んだという2万冊の本の
威圧感は、何より力強いですね。行くと勇気を与えてくれる
場所です。

では、また。

久しぶりに「万年筆の旅 作家のノート II」吉村昭・著 を読んでいます。
吉村昭は徹底的に事実を掘り起こして、事実しか書かないので好きです。
事実を淡々と緻密に書いて積み上げて、私たちの胸に重量感ある感動を
与えてくれます。

「万年筆・・・」その中で、終戦後三・四年経った時にラジオで聞いた話が
書かれています。彰義隊の戦の小戦闘を目撃した老人の話、
老人はその頃商家の小僧で、上野の山から広小路に下ったあたりで、
討幕軍と彰義隊が両方から走ってくるのに気づき、大きな水桶の
影に身をひそめた。両軍とも三十名ほどで、抜刀して向かい合ったが、
互いに十間(約18メートル)以上も離れたまま「やあ、やあ」と
声を掛け合っているだけだったという。

「活動写真にあるような威勢の良い斬り合いとは、まるっきり
ちがいましてね」と言った老人の言葉もはっきり覚えている。
やがて両方が接近し、彰義隊側にけが人が出ると、その血に
興奮したらしく彰義隊が狂ったように斬り込み討幕軍を
追い散らしたという。この水桶の陰で身を震わせていたという
老人の思い出話には、実感として強く感じた。

読んでいる私にも、こういう体験者の生々しい話は、小説や学術史
とは違い、自分自身が体験したような感情移入ができました。

さて、今晩の「その時、歴史が・・」日本に新聞が生まれた日
   ~幕末維新・ジョセフ彦の挑戦~、
吉村昭も「アメリカ彦蔵」でジョセフ彦を書いています。
この本も良かったですね。

では、また。

京都の友達が、司馬遼太郎の「古往今来」を送ってくれたので
再読しています。昔に一度読んだのですが、完全に忘れていました。
というより、その当時は目次に書かれている表題の地名も人物も
知らないことが多かったので、記憶に残らなかったのでしょう。

その中の倉敷・生きている民芸に書かれている司馬さんの常宿である
「旅館くらしき」まで、自宅から徒歩10分ほどに住むようになって数年が
経ちます。

文中には、この旅館の女将さんとの若い頃の思い出話が書かれていました。
一昨年あたりまで、唇に鮮やかな赤の口紅を引き往年の美貌を彷彿とさせる
銀髪の小柄な彼女と幾度となくすれ違い、颯爽と歩いておられたのを
思い出します。

その方ともぴったりとお会いできなくなって、どうされたのかと心配して
いましたら、新聞紙上で相続者がいず、こちらでは大手の建築会社に譲渡された
とのこと、それも今の現状を維持していくという約束で。
今は老朽化のため、補強工事で閉めておられますが、あのヨーヨーマも
演奏した喫茶の方は開いています。
http://www.ryokan-kurashiki.jp/

そして、「はしまや」も文中に出ていました。昨年、倉敷の屏風祭りという
美観地区の家々に代々伝わる屏風を玄関先に展示するお祭りで、
普段では行かない少し遠方の展示会場まで足を伸ばした時、この
はしまやさんの展示を見て後ろを振り返ると、若かりし頃の司馬さんが
笑いかけていました。この「古往今来」の書かれたまさに、その場面で
ここのご子息によって写された貴重な一枚が飾られていました。
http://www.hashimaya.com/

本を読んでいて、まさに自分が経験したことが書かれてあるほど
感激するものはありません。みなさんも、倉敷に来られたら、是非、
旅館くらしきとはしまやさんの司馬さんに会いに来て下さいね。

2006年1月も中旬近くなりましたが、今年も宜しくお願いします。

さて、年末年始、姫路城から大阪城、奈良は明日香に行って来ました。
姫路城で元旦を迎え、大阪は適塾を(開いていませんでしたから)ぐるっと
一回りし、当時をふけりました。物干し台があるのです。ここに来て
塾生は息抜きをしたのだな、福澤諭吉や大村益次郎・橋本佐内、、
そうそうたる人たちがここで学んだのだと思うと、現存して私たちが
見学できるのは幸せなことです。さて、大阪城、夏の陣で焼失して、
江戸時代になって直ぐ立派な城を作ったのですが、落雷でこれもまた
焼失してしまい、そのまま何もなくほっておかれたそうです。

なんと幕末近くなり、建てられたのが今の大阪城、ここに慶喜や
近藤・土方が集ったのです。私は小学校の時、一度、見学に来ていますが
昔は本当にお城という感じでしたが、今の大阪城は綺麗過ぎますね。
ライトアップされて、壁面に黄金の虎が描かれて、ケバケバしくて、
太閤さんが見たらきっと喜ぶでしょう。黄金の茶室を作ったぐらいです
からね。

翌日は奈良・明日香に行き、聖徳太子の法隆寺、落ち着いた
日本の古代を偲びました。

寒くなりました。今日、灯油を注文します。
つい一週間ほど前は半そでを着ていたのに、急激ですよね。
風邪を引かないように注意してくださいね。

さて、龍馬直筆の茶碗が発見されたとのこと、幕末から140年あまり
まだまだ未発見の品が、、、だから幕末は面白いんですね。
以下、お読み下さい。

2005年10月02日

龍馬直筆の茶わん発見 山口・萩の旧家

 坂本龍馬の直筆入り茶わん見つかる―。山口県萩市の旧家に伝わる
萩焼の茶わんがこのほど、龍馬が萩を訪れた1862(文久2)年に名前や絵を
書き入れたものと分かった。同市の吉田松陰研究家と京都・霊山歴史館の木村幸
比古学芸課長が確認した。一緒に筆を入れたと考えられる松陰門下生らとの交流
も浮かび上がっている。

 茶わんを所有するのは同市の斉藤兼太郎さん(71)。斉藤さんの祖父が
維新前後に手に入れ、龍馬が筆を入れた茶わんと伝えられていた。これまで一部
では知られていたが、確かなことは分からないまま。そこで同市の松陰研究家・
三輪正知さん(35)が調査を申し出た。

 茶わんは外側に松林の絵と「龍馬」の名前が記されている。反対側に
は明らかに別の筆跡で、茶わん内側から外側に続く山の絵と「豊嶺」「雪鶴」
「玉枝」の文字がある。内側には1羽の鶴が描かれている。

 「これまでに見た方は玉枝を女性の名前ととらえていた」と三輪さん。
調べると現在は玉江という地名が、幕藩期は玉枝と書かれたことが分かった。玉
江地区から茶わんの配置通りに考えると、横の山は指月山。少し離れて菊が浜の
松原と、ぴたり当てはまる。この構図を見られる場所は、松陰の菩提(ぼだい)
寺である泉福寺の付近に限定される。

 三輪家は萩焼の卸や小売りを行う専門店を営む。茶わんの土や焼き具合を
調べると、長州藩の御用窯だった坂窯の文久年間の作品に同様の物が現存してお
り、龍馬が訪れた年代とも一致した。

 豊嶺は萩城のあった指月山を指す。龍馬が訪れた時は大雪だった。
雪鶴は城のある山の上を高く飛ぶ鶴が、松陰をイメージしていると考えた。

 絵の内容を明らかにした上で、「龍馬」の筆跡を木村課長が鑑定。
資料と比較すると、1867(慶応3)年6月に木戸孝允にあてた書簡のサイン
などとほぼ同じだった。木村課長は「龍の字の最後のはね方は完全に龍馬のもの」
と話す。

 龍馬が萩を訪れたのは文久2年の一度だけ。前年に土佐勤王党に加盟し、
武市瑞山の書簡を長州藩の久坂玄瑞に渡すための訪問だった。久坂の日記「江月
斎日乗」は、龍馬が1月14日から10日間滞在し、面談したり松陰門下生と会っ
たと記述している。

 ところがこの間に、久坂は風邪で寝込んだと書いている。「(松陰門下生に)
龍馬を案内してやってくれとなったのでは」と木村課長と三輪さんは推察する。
龍馬と会った松陰門下生の中に画家、松浦松洞がいる。松陰の菩提寺を案内して
しのびつつ、龍馬は茶わんに松原を描いて名前を入れ、プロの松洞が山や鶴など
を加えて仕上げたと推測した。

 龍馬はその2カ月後に土佐藩を脱藩した。松陰門下生と熱く語り合った日々が、
龍馬の決意に影響した可能性もある。

 【写真説明】松林の絵と龍馬の筆跡と確認されたサイン(茶わん外側の一部)

http://www.kochinews.co.jp/0510/051002headline01.htm#shimen1

こんばんは、みちこです。

もう今年も後二ヶ月ほど、今年は京都には何度も行きましたが、
史跡めぐりができませんでした。でも、GWに鹿児島に行けたので、
良しとしましようかね。来年は長崎の予定です。楽しみです。

さて、今、ヤフーを見ましたら、

将軍コーヒー、お味はいかが?=徳川慶喜のひ孫が再現-千葉

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が飲んだとされるコーヒーを再現した
「将軍珈琲」を味わう会が30日、千葉県松戸市で開かれた。慶喜の弟で最後の水
戸藩主、昭武が余生を過ごした「戸定(とじょう)邸」が会場となり、参加者ら
は明治期のレトロな服装に身を包んだウエートレスに給仕され、歴史のロマンに
思いをはせた。
 慶喜は1867年、将軍就任のお披露目などのために欧米4カ国の公使を
大坂城に招いた際、フランス料理のフルコースでもてなし、食後にコーヒーを振
る舞ったとされる。同市戸定歴史館の斉藤洋一学芸員(47)によると、日本で初
めて政府の公式行事で飲まれたコーヒーだという。
 将軍珈琲は、慶喜のひ孫に当たる写真家徳川慶朝さん(55)が2002年、
茨城県のコーヒー会社と協力して再現。当時の記録などを参考に、インドネシア
産のアラビカ種の豆を炭火でばいせんした。「濃いけれども苦くない」のが特徴
という。 
(時事通信) – 10月30日18時0分更新

今朝の日経では、作家の山村竜也さんが紹介されていました。
東京都の職員をしておられるそうですね。NHKの「新選組!」の時代考証もされて
おられ、著書も20冊、「新選組!」の最初の方の場面で、近藤・土方・龍馬・小
五郎が四人連れ立って黒船を見に行く場面がありましたが、脚本家の意図をくん
で、ギリギリOKを出したとか、私だったらOKは出さないな、私はあの場面で
ズッコケタもの。

以上、幕末*深夜のつぶやき、、でした。

では、おやすみなさい!