みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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いよいよ二学期が始まって、みなさん、どうですか?
文化祭もあるし、運動会もあるし、行事がたくさん!
みなさんの活躍をお祈りしています。

さて、8月31日付けの日経、社会面の「窓」を読んでいて嬉しくなりました。
歌舞伎の中村勘三郎さんが年末のテレビドラマで幕末の長岡藩家老河井継之助を
演じることから長岡市で無料公演を開催とありました。

山古志村の復興支援するそうです。この話も美談ですが、年末のテレビドラ
マで幕末物をしてくれるのは嬉しいです。

勘三郎さんが継之助をするということは、継之助が主役という分けですね。

調べましたら、長岡藩士の生きざまを描く「河井継之助―駆け抜けた蒼竜」
(日本テレビ、12月末放送)に主演とのこと。
NHKでは、「新撰組」の続編をお正月にしてくれるそうですし、年末年始は、
たっぷりと幕末が堪能できますね。

みなさん、お元気ですか、みちこです。

今日(もう一昨日になりますが)は、暦の上で暑さが収まるという処暑
という日だそうです。
やっと涼しくなって、暑さのぶり返しはないように祈ります。

いろいろと忙しくて、パソコンに向かって、幕末の独り言を言う
時間がありませんでした。読書はできる状態でしたので
10冊ほど完読できました。先ほど、読み上げたのは、「ニコライ遭難」
吉村昭・著、明治24年 ロシア皇太子を警護の巡査が襲った事件です。
ここでも西郷さんが出てきます。西郷さんは西南の役で亡くならず
ロシアに逃げて皇太子と共に帰国する、という噂が日本中に
広がっていた、、、義経のジンギスカン伝説と同じですね。

襲った巡査は、政治家は死刑にしろと圧力を掛けますが、
司法はそれを避けて終身刑にした。裁判官は龍馬が育てた人物、
内容の濃い一冊でした。
吉村昭さんの本は奥の深い充実感を味わえます。

暑中お見舞い申し上げます。

7月17日、祇園祭に行って来ました。
京都の友達に案内してもらい、細い道で待ち構えていました。

昼の山鉾巡行の稚児さん、祇園祭は女人禁制で三ヶ月前から
男衆に身の回りの世話をしてもらうから、彼らの食事飲み代等など、
着物も今年新調したし、、3,500万出しはったって、
馬に乗ってはる人は200万、、、、お商売してはる人でないと
払えませんね、山鉾はだいたい10トンの重さです、などびっくりする
話ばかりで、継承維持するのは並大抵ではないですね。

山鉾巡行は毎年17日の午前中なので、今までなかなか見られませんでしたが、
NHKなどの特集で知識を得ていたゴブラン織りの見事さは格別でした。

この山鉾巡行、幕末の志士達も、明日の命の明暗も暫し忘れて
笑顔を浮かべたであろうと思うと、タイム・スリップしたような
気分でした。

この画像をお送りしますよ、私までメールを下さいね。

では、また。

九州旅日記、その2です。

鹿児島市内に黎明館(れいめいかん)という明治百念を記念して
昭和58年に開館した歴史資料センターがあります。

ここで西郷さんの軍服を見ることができます。なるほど、とても
大きくて生前の西郷さんを彷彿とさせてくれます。もう一つ、
印象に残っているのが、大久保利通・愛用の洗面セットとでも言い
ましょうか、ヘアーブラシ・コップ・洗面桶・・、色はなんと鮮やかで
冷ややかなセルリアン・ブルー、ブラシに残っていた頭髪から
大久保の血液型は O 型。色合いから大久保の冷徹さが頭を過ぎりましたが
血液型を知り、なぜかホッとした私でした。

さて、その西郷と大久保、維新後の彼らの様子を知る逸話があります。
政府高官に収まると贅沢三昧が高じた大久保、イギリスに高価な軍刀を
発注します。それを聞きつけ、西郷はその軍刀を借り、なかなか返さずに
いました。大久保が催促すると、「あの軍刀なら、書生が欲しがるのでやった」
と西郷。維新後、政府高官らは驚くほどの高給を取り、壮大な邸宅に住み、
蓄財した。だが、西郷だけは、給料は人民の血税、私財を蓄えるのはもって
のほかと質素な生活を送っていた。西郷は大久保に対して不信感がつの
っていったという。

また、西洋諸国の良い点も悪い点も、全てひっくるめて模倣しようとす
る新政府の欧化政策に対して、西郷は大きな懸念を持っていた。
政治家としての素質は十分にありながらも、西郷が最終的に政治家
として道を歩むには、その心中が清廉過ぎたのかも知れません。

西郷さんの話はまだまだ続きます。

さて、今日は、桐野利秋の話を追加です。
亡くなった時、桐野の遺体にはフランス香水が漂っていたそう。
しゃれた人だったのねと思っていました。

田原坂での敗戦の後、一路鹿児島へと向かった。二週間以上にも渡って山中を
さ迷よったことから衣服は無残なまでに破け、ボロボロになっていた。
そのため、鹿児島に突入した薩軍は、政府軍が残していった衣料品などの
数多くの物資を手に入れ、桐野もまた自分に合う服を見つけていた。その
洋服には、なんと桐野にぴったりの大きなシルクハットもついていた。
桐野は常にそのシルクハットを被って、兵士達を叱咤激励。その桐野の
勇躍した姿は、非常に雄々しいものであったと伝えられています。

死後、そのシルクハットは政府軍の持ち主に戻されたという。

桐野は持ち主に丁寧な礼状を認めていて、持ち主はその手紙を深く愛蔵していたと
伝えられています。というわけで、そのフランス香水はその政府軍高官の
品だったというオチでした。

次週、5月25日の「その時、歴史が・・」は西南戦争がらみのお話。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html

                    旅日記、つづく

お元気でお過ごしでしょうか。

5月のGWに九州縦断往復920キロ旅して来ました。

小倉まで新幹線、それからレンタカーを借りて南下し、まずは熊本の田原坂へ。

田原坂資料館には当時の大砲や小銃などの武器をはじめ、すさまじい
銃撃戦の戦争後の写真などが展示されています。また現地には西南の
役戦没者慰霊之碑、激戦の様子をまとめている碑文もありました。
そのうちの一枚を写しました。
ご覧になりたい方は私までDMを下さい。写真は4枚あります。
写真3の銃弾の跡も生々しい倉は復元品です。

当時、大砲や軍事物資を載せた馬車の通る広い道はこの道しかなく、
田原坂の強行突破を計る官軍は、左右の高い土手や正面の雑木林から
姿の見えない薩軍に銃撃され、退却しようとすると前後に回り込んだ
薩摩兵に切り込み攻撃を受けこの坂を抜くことができず、何の変哲も
ないわずか1.5キロメートルのこの坂を巡って、3月4日から
17昼夜にわたる激しい攻防戦が展開されたのです。参戦者約10万人
死傷者3万6千人、ここ田原坂では死傷者6千5百人。

官軍は一日30万発以上の銃弾を消費、これは20年後の日露戦争での
旅順要塞攻撃時とほぼ同じ数。輸入されたばかりのワインや牛肉の缶詰を
楽しむほど物資が豊富で、ワインのビンも資料館に展示してありました。
鍋を 鋳つぶして弾丸を造っていた薩軍とは大違い。

有名な「空中かちあい弾」(両軍の放った弾丸が空中で衝突し、融合した
もの)も、 一つや二つでなく、バケツ一杯ほども展示してあって、
近代戦のすさまじさを物語っていました。兄弟5人が薩摩軍に参戦し、
全て亡くなり家系が途絶え、その兄弟の写真がありました。三男は笑って
写っていましたが、西郷さんらと共に戦い幸せだったのかな。

田原坂はツツジが満開で、とても風光明媚な所でした。それらに見とれ
ていると、背後にあるおびただしい名前が連なっている慰霊碑のなんと
重いこと、、。その前で心から合掌している青年を見て、125年前
の戦い散った青年達の姿とだぶりました。

                    つづく

西南の役とは、、

明治政府は廃藩置県や地租改正を進め、封建から近代国家への歩み
を進めていったが、旧藩閥の対立や戦争、官僚の汚職・職権乱用
事件などを抱え、新政府内は決して安定したものではなかった。
また、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の
不満が徐々に高まっていった時期でもある。

 その状況のなか、明治6年に参議・近衛都督の職にあった陸軍大将・
西郷隆盛が、いわゆる征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野。
西郷の後を追うように、桐野利秋・篠原国幹の両陸軍少将をはじめ
宮内大丞・村田新八ら政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人
約600人も大挙して辞職し帰郷した。

これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と
政府に残った大久保利通派に大きく分裂することになる。  
帰郷した桐野利秋・篠原国幹らを中心に士族中心体制が構築されつ
つあるなか、明治7年に私学校が開設される。藩政の骨格がその
まま私学校の組織に再編成され、役人の人事も中央に従わず、
鹿児島はさしずめ独立王国の観を呈していた。明治維新を成し遂げた
薩長土肥のなかでも、抜きんでた力を誇る薩摩藩の軍事力はそのまま
健在であり、また反政府感情も極めて高かったことから、中央政府に
してみればいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなものであった。

明治7年2月、江藤新平らによる「佐賀の乱」が起こっていた。
明治9年の廃刀令や金禄公債証書発行条例などの公布でますます
士族の不平が高まるなか、同年10月には熊本「神風連の乱」・
福岡「秋月の乱」・山口「萩の乱」など、その思想的背景は必
ずしも同じではなかったが、立て続けに士族の反乱が起こる。
相次ぐ反乱にも関わらず沈黙を守っていた薩摩は西郷の威望に
よりその爆発力を押さえ込んでいたのである。

鹿児島の処遇について、長州藩の木戸孝允は薩閥の代表である
大久保の責任を厳しく追及。木戸の突き上げにより大久保は、
腹心であり、同じく鹿児島出身の大警視・川路利良らと善後策を図る。
川路は12月に鹿児島出身者の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、
状況の視察と私学校関係者の離間工作を指示。政府はこれに呼応して、
鹿児島にあった陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。

これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、
桐野や篠原ら私学校幹部に無断で火薬庫を襲撃。さらに密偵の
大量逮捕によって、真偽は不明ながらも西郷暗殺の計画が流布
されるに至っては私学校側も激昂する。 火薬庫襲撃事件が
私学校に対する弾圧の口実となった政府との対立は決定的と
なっていた。予期せぬ火薬庫襲撃事件に西郷は「汝どま、弾薬に何の
用があっちゅうとか!ないごて、追盗っせえ!(お前たちは弾薬に何の
用があるのか!どうして盗んだのか!)」と幹部を前に激怒したという。
しかしながら、私学校幹部ほか挙兵決行の意思が強いのを知ると、
ついに西郷も決意。ここに運命の振り子が大きく振られたのである。

関西に30年間住んでいたので、特に今回の尼崎の事故は心が痛みます。
JRは阪急に対抗するため、あまりにも速度をあげて対応して
いたようですね。密集地をかなりの速度で走り抜けて、安全という
ものを置き忘れていたのでしょう。インタビューで答えていた
女子大学生の言葉が心に残ります。
「お願いですから、こんな事故はもう二度と起こさないで下さい」
 泣きながら、友の死を悼んでいました。
亡くなった方々のご冥福を心から祈ります!

さて、私、GW に薩摩に行くことになり、鹿児島の史跡めぐりのお話を
期待していて下さい。

行きます、田原坂! レンタカー借りて知覧まで行く予定です。

さて、「長岡藩軍事総督河井継之助―武士道に生きた最後のサムライ」
ベスト新書 (73)  星 亮一 (著) 価格: ¥819 (税込)を読み終えました。
前半はさらっと復習のような形で継之助の人となりをおさらいし、最後の
盛り上げ方が上手く、感動的に読み終えました。

中で心に残った箇所は、二箇所ほど、

方谷は継之助が自費で来た事に感心し、「昨今の官使は公金を
使うことばかり考えている。それが国を滅ぼす」、、、

   誠に、今の日本の姿、そっくり。

小千谷談判での土佐の岩村精一郎、わずか23歳、河井の人物経歴は
今になってようやく知ったところで、当時は知る由もなかった。
後に門衛に聞くと、河井はなおも幾度となく、本陣の門に来て、再度の
面会を請い、深夜までその附近を徘徊して、しきりに取り次ぎを求めた。

   あーーっ、この箇所、悔やまれる部分ですね。

継之助の気風は長岡人に強く受け継がれ、山本五十六ら多くの俊英を
輩出した。「時として人間は命をかけねばならない」という
大きな命題を継之助は今の世に残した。

   政治家に是非、心に刻んで欲しい言葉です。

 では、また。

いよいよ桜も満開、この土日にはみなさんどこかに見に行かれる
のでしょうか。

友だちが教えてくれたメルマガ、面白そうです。
歴史の「そうだったんだ」【幕末・維新編】
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000141288
http://www.mag2.com/m/0000141288.html

さて、北海道文化放送製作の「新選組 永倉新八からの伝言」、という
単発のドキュメントの録画を友だちが送ってくれました。

 この番組は、永倉新八のひ孫、番組ディレクターの杉村さんが
作られた番組で、当初は北海道文化放送のみの放送だったそうですが
好評につきあちこちで放送されているそうです。ひ孫ということで
いろんなイベントに呼ばれて参加しているうちに、「永倉が、袂を別
った近藤の墓建立に奔走したのはなぜか?」という疑問を持って、
今回、この番組を制作されたとのことです。

 ひ孫さんは現在37歳、新八があの「浪士文久報国記事」を書き、
板橋に近藤勇と土方歳三の慰霊碑を建てたのも37歳、同じ年齢になって
彼は考えたそうです、新八は何を思って建立に奔走したのか、新八に
とって新選組とは何だったのかということを・・。

 新八の足跡を追いかけていく構成で番組は進みます。
ゲストとして浅田次郎、黒鉄ヒロシ、立川談志など、新選組の研究家や
愛好者に話を聞きながら新八の実像を迫ろうとしていきます。
「浪士文久報国記事」を横浜の素封家の倉から見つけ出してくれた
多田敏捷氏、ご自宅を訪問して、その「浪士文久報国記事」を前にして
インタビューされていて興味深かったです。そして、新八の着た紋付羽織を
お持ちの方がおいでで(新八が写真で着ている)、その羽織をひ孫さんが
羽織られて、目の辺りが新八にそっくりだわと思いました。死と向かい
合っていた新選組時代の新八が、まさかひ孫が自分の羽織を着てくれる
だろうなんて、考えも及ばなかったでしょうね。幕末の主な登場人物は
永倉のように直系のひ孫など存在するのは稀で、永倉がいてこそ、新選組の
詳細が分かるようになったり、貴重な存在ですよね。

 板橋駅前の慰霊碑(近藤勇の遺族が刑場から遺体を掘り返して来て埋めた場所)の、
明治30年頃の古写真を本などでは見ましたが、この番組で見るととても辺鄙な
場所で広い野原の中にポツンとあるんですね。当時まだ賊軍として白眼視されて
いた人々の碑を建てるのは、すごいエネルギーです。当時のお金で二千万かか
ったそうです。常にたくさんの新選組ファンが墓参に訪れて賑わっています。
新八は晩年小樽に落ち着くまで、東京に住んだ事もあり、近藤の月命日には
必ずここを訪れていたそうです。そして自分の死に際しては、慰霊碑の隣に
分骨して葬るよう遺言したとの事。 明治十年になって、京都に行き、近藤の
首を探し回った新八、永倉が改名した杉村「義衛」という名前の意味は「義を
衛る(まもる)」で、それは司衛館の「衛」。

 新八にとって試衛館で仲間たちと過ごした若き日は、人生最良の時だったの
ですね。1時間で上手くまとめられて良い番組でした。

いよいよ春らしい気候になってきました、みなさん、お元気ですか。

さて、友だちから大阪の散策記が届きました。特に堂島・適塾、
私もちょくちょく行きますが、適塾は江戸時代のものが現存している
極めて貴重な建物です。写真もたくさんありますので、読んでくださいね。

司馬遼太郎記念館では、企画展「挿絵でみる司馬作品」を開催してますが、
季節がら、司馬さんの好きだった菜の花が記念館のあちらこちらで
飾ってありました。
司馬さん書斎のまわりも菜の花で賑っています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-02.jpg

企画展「挿絵でみる司馬作品」ですが、「峠」も2枚の挿絵がありました。
1枚は、西国遊学で京都での公家女性との色艶のところでした。
もう1枚は、継之助と松蔵?が山道をあるいているところでした。
こちらは、「峠」どの場面かは??です。
館内は写真禁止ですので、残念です。
せっかくですので、「1999年 司馬遼太郎が愛した世界展 目録」にも
載っている挿絵を載せておきます。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-02-01.jpg
こちらは、横浜の場面と最後の場面でしょうか?のこりはよくわからないですね。

司馬記念館をあとにして、適塾へいきました。
ここで、yamazakiさんが長岡藩大坂蔵屋敷の場所を偶然見つけました。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-03.jpg
の奥の地図は、緒方洪庵が塾を開いていたころの地図です。この地図に
長岡藩大坂蔵屋敷が載っています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-04.jpg
赤○が長岡藩蔵屋敷、青○は福沢諭吉が生まれた中津藩蔵屋敷です。

福沢諭吉は、適塾の塾頭をしています。歴代塾頭の一部です。
大村益次郎の名もでています。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-05.jpg
適塾内には、福沢諭吉の書もあります。
この書は、適塾の由来を福沢諭吉が書いたものです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-06.jpg

適塾は、河井継之助の友人、小山良運も入門していました。
門人名簿には、小山良長という人がいますが、これが小山良運ではないかと
思われます。赤○
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-07.jpg

福沢諭吉生誕の地へいきました。福沢諭吉が大坂の地で生まれたことは
大阪人でも知っている人は少ないのではないでしょうか?
福沢諭吉が商人の町「大坂」で生まれことは、彼のその後の思想におお
きな影響を与えたように思います。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-08.jpg

福沢諭吉生誕の地から徒歩5分ぐらいで長岡藩大坂蔵屋敷跡に行くことが
できます。
今は、検察庁となっています。岩村高俊の子孫が法務大臣になっていますが、
なにか因縁めいたものを感じます。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/df50/temp1/20050305-oosaka-09.jpg

今日はわりと暖かくて風もなく、春近しを感じさせる日でしたね。

さて、「官軍が火を人吉に放つ図」、これは昨年、私が行きました
四国琴平の金毘羅宮特別公開で展示された高橋由一という画家が描いた絵です。
この絵はあったのに、残念ながら見逃してしまって、後で大変後悔しました。

内容は、開国で揺れる日本のなんでもない風景画、画面半分は自然のきれいな
風景が描かれ、半分は火事現場のような赤い火と黒煙と、その中でうごめく
動乱の人々が描かれています。

http://www.woodone-museum.jp/exhibition/2%28past%29/02/1-1%28takahashi%29.html

高橋由一といえば、中学校の美術の教科書に出てきて、ご存知だと思います。
代表作
「鮭 (http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=4126)」(1877年頃)(東京藝術大学、重要文化財)
「花魁 (http://db.am.geidai.ac.jp/object.cgi?id=4124)」(1872年)(東京藝術大学、重要文化財)

なんと生まれは1828年、坂本龍馬より年上だったんです。明治維新の頃は
すでに40歳、知りませんでした、てっきりもっと若いのだろうと思っていました。

なんでもない油絵を描いていたと思った高橋由一が、幕末の動乱も描いて
いた、、、私としては、とても衝撃的なことでした。

では、また、お元気でお過ごし下さい。

龍馬の妻、お龍、龍馬亡き後、西郷さんの紹介で、仲居をしていた神奈川県 
田中家(料亭)に友だちが行きました。詳しく聞いてきてとお願いしたら、
レポートを送ってくれました。
田中家(料亭)のHPは以下です。
http://www.tanakaya1863.co.jp/groop.htm

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田中家は江戸時代からつづく神奈川宿の旅館で
明治6年から8年まで仲居として坂本竜馬の妻「おりようさん」が勤めたそうです。
添付の写真は社員旅行で行ったときにとった写真で
見にくいですが、正面の背の高い女性が「おりょうさん」との説明でした。
なお勤めるきっかけは田中家が長州藩士の常宿で、西郷隆盛の紹介でとのことだ
そうですが、維新の大立者が出てくるので本当でしょうか?
田中家は確かに安藤広重の絵には載っています。

田中家でのおりょう伝説
明治八年頃、母と弟に死別して全く孤独な身となってしまった坂本竜馬の妻で
あったおりょうは神奈川の田中家(原文は田中屋)という高級料亭の仲居として
働いていたが、深酒に溺れるようになっていて、女将も困っていたらしい。
当時彼女は三十七歳位であった。

この料亭に遊びに来る客で西村松兵衛という男がいたが、彼は横須賀造船所
建設用の資材の回漕業をしていて、度々来るうちにおりょうさんと意気投合し、
彼の住んでいる横須賀の地で世帯を持つことになった。入籍は明治八年七月で、
この時おりょうさんは西村ツルと名前を変えている。
出典「おりょうさん」追想より(一部改変)/大津観光協会発行

※当時を知る仲居が調査員に語った内容
「おりょうさん」は非常に頭が良く酒を好み、人情深く、客あしらいもうまく、
当時無数にいた仲居の中でも飛び抜けて目立つ存在だったようだ。勉強家で
英語を喋り海外事情にも詳しく話題も豊富な彼女は別格であっただろう。
おりょうはきっぷの良い粋な人であった。泥酔して根っこを生やしてしまった
お客様を帰すのにも活躍していたであろうのは想像に難くない。
田中家を去った後も彼女を知る常連客より「今日はおりょうはどうした?
」という声が長い間聞かれ、当時在籍していた多くの仲居が
「もういないのにナニヨ!」と嫉妬したという話が残っている。

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上記のお龍さんの入っている集合写真、送信してもらっています。
見たいとお思いの方はお送りします。
私までお知らせ下さい。お待ちしています。