みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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今朝はそれほど寒くもなく、ほどほどの気候ですね。

さて、随分前に読んだ、子母澤寛の「ふところ手帖」を読んでいました。
勝海舟・榎本武揚・山内容堂から座頭市まで、その実像を丹念に追及し
独自の語り口で書かれているので、お隣のおじさんが話しているようで
とても親しみやすい本です。

この中で一番印象に残った箇所、江戸一とも言われた伊庭八郎が、箱根
で名もない小田原藩士に左腕を斬りおとされます。どうして、これ程
高名の剣士を名もない侍が斬れたかと言うと、小田原藩には昔から、
下級の侍たちだけがやっている奇怪な剣法がある。要するに、何でも
いいから勝てばいい式のもので、その侍はこれを会得していたからだ
という。ところが、これは間違いで、子母澤寛の元に、斬った者は
鳥取藩の名もない侍だという手紙が届いた。鳥取には、あの斬り
落とされた伊庭の腕がピクピク動いていたのを見たという人が何人も
いたという。一生懸命、一つの技ばかり練習していると、意外な
功を奏したものらしいとのことだ。と締めくくって、結論は書かれて
いませんでしたが、馬鹿の一つ覚え、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる
ということわざが頭を過ぎりました。
後、座頭市って実在の人物だったんですね。

では、また。

さて、先週の大河「新撰組!」、あれから、山南敬助について気に
なりだして調べてみました。

芹澤暗殺の時は参加しています。それも、よほど気心の
知れた仲間内でないと成功しなかっただろう鴨暗殺です、
恐らく土方とは心の奥底では通じ合っていただろうと思います。

先日の大河でも場面は出てきましたが、岩城升屋乱入浪士斬殺
事件というのがあって土方と山南が行くんですけど、そこで山南
の愛刀が二つにぷっつり折れてしまいますね。多分、そこで山南は
傷を負ったのではないでしょうか。

それから亡くなるまでの一年数ヶ月全く新撰組史には出て来ないのです。

池田屋事変も不参加なんですよね。ということはやはり病気説、、
ガンではなかったか、とも言われています。神経を病んでいたとも、
ああいう人生の終わり方をしても不思議ではない、、
触れて欲しくない新撰組の影の部分でしょうか。

みなさんは、どう思われますか?

山南の墓が壬生の光縁寺にあり、墓石は削り取られて
ボロボロです。ファンが持っていくそうです。
悲しい亡くなり方をしたのでファンもたくさんいますね。

京都の友だちが地元の郵便局でもらった新撰組グッズをたくさん
送ってくれました。京都に行かれたら郵便局も覗いて下さい。
記念絵葉書とか、史跡めぐり冊子とか、布製ケースとか
ありますよ。

では、また。

お元気でしょうか。最近は良い天気が続いていますが、
先日の大雨で野菜の価格が高騰気味だそうです。

さて、日曜日の23日の山田方谷の放送はかなり遅れて、深夜2時
10分から1時間だったそうです。
ビデオ予約していた方は尻切れトンボで録画失敗とのこと、
NHKももっと早い時間帯で放送して欲しかったですね。

さて、新書案内!

浅田版新選組異聞! 芹沢鴨暗殺を描いた話題作

「輪違屋糸里」
ワチガイヤイトサト
浅田 次郎    

■内容紹介(引用しています)■
島原の芸妓・糸里は土方歳三に密かに思いを寄せていた。
二人の仲を裂こうとする芹沢鴨には、近藤派の粛清の白刃が
迫りつつあった……

百三十万部を超えるベストセラー『壬生義士伝』から四年。
芹沢鴨暗殺の真実に迫った、浅田版新選組第二弾の登場です。
六つで花街・島原の輪違屋に売られた糸里は美しい芸妓に成長した。
日に日に対立の溝が深まる近藤派と芹沢派。両派の和解に自分を
利用しようとする土方歳三に翻弄される糸里は、いつしか新選組
の運命に寄り添っていく……。連載終了後、多摩に住んでいた
浅田さんの曾祖父が天然理心流を習っていたことも判明。骨の髄
まで新選組にどっぷりとつかった最高傑作です。

定価(税込) 1500 円

ページ数 296ページ

判型 四六判上製カバー装

初版発行日 20040530

ISBNコ-ド 4-16-322960-4

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GWに京都でお会いした土方歳三はまり役の、あの栗塚旭(くりづか
 あさひ)さんのお話です。

幼い頃から運動神経が皆無で立ち回りには苦労したそうです。
殺陣師があまり動かなくていい殺陣をつけてくれたそうです。
土方役がついてまわり、その後仕事が限定され苦労したようです。
不器用なとこと、雰囲気もどこか大友柳太朗さんと似てます。

しゃべりながら色紙にサインしていて、平成と書くところを
昭和と書いてしまい、色紙を一枚パーにされておられました。
こういうところが、また憎めないお人柄です。

高校時代、ピアノを習いにいって、教師に「あなたには楽器
は無理だから声楽にしなさい」と云われたそうです。

またO脚をなおすためにバレーを習い、O脚は見事に直ったの
ですが、オカマ歩きになってしまい土方やる時に、監督に
随分と注意されたそうです。

根が明るいものですから、土方役がついた時には普段から監督に
「笑うな・しゃべるな」とうるさく注意され、役になりきることに
専念させられたそうです。

はじめて土方役がついた時のギャラがなんとたったの2万円だった
そうです。ちなみにそのころ(昭和40年)の「新選組血風録」の
制作費は1本200万円だったそうです。
大川橋蔵さんはすでに平次で一本200万円取っていたそうです。
監督が「俺たちは橋蔵さんのギャラと同じ制作費で映画撮ってる
んやでえ」とぼやいていたそうです。
 

いろいろとお話をお聞きしますと、栗塚・土方の魅力が更に
増してきます。以下、「燃えよ 剣」放送予定です。

NHK BS 13日放送 18時~「燃えよ剣」

京都文化博物館では、5月27日(木)29日(土)です。

『燃えよ剣』 1966年松竹(90分・モノクロ)

       監督:市村泰一
       出演:栗塚旭、和崎俊哉、石倉英彦、内田良平

では、またです。

週末は寒くなるようですね。

さて、今日の独り言、
ここ倉敷の小さな書店にも新撰組コーナーができて、
同じような本ばかりのネタ切れ状態の中で、新撰組周辺の
今まで取り上げてもらえなかった人たちにもスポット・ライトが
当たり始めて嬉しい限りです。

「清川八郎の明治維新」 高野澄  NHKブックス 1160円 と
「新撰組紀行」     中村彰彦 文春新書   760円を買いました。

京都に舞台が移ってガゼン面白くなってきました。
佐藤浩市の芹沢、伊東四郎の八木家主人、良いですね。

しかし、山南啓助、、なんとかして欲しい。
山南ファンが悲しむほど嫌味な演出です。
光縁寺に行く度、啓助さんの墓石が削り取られていて、、、、
熱心なファンが多いんですね。

今しがた、岡山県のローカル・ニュースを付けましたら、ジャスト・タイミング、
「山田方谷記念館」が本日よりオープンだそうです。岡山県大佐町という所だそ
うです。岡山県民ですが、大佐町ってどこにあるのでしょう。行かなくてはいけ
ませんね。

http://www.town.osa.okayama.jp/koho/2004/200402/200402_041.html

西日本にお住まいの方はGWには京都に行きましょう。
「新選組!」にちなみフリーきっぷ JR西日本が4月発売

 JR西日本は4月1日から、NHKの大河ドラマ「新選組!」の舞台になって
いる新選組屯所跡などの観光スポットを見て回るのに便利な「京都フリーきっぷ」
と「京都・新選組見聞録パス」を発売する。
 「京都フリーきっぷ」は、九州、中国、北陸、南紀、北近畿地域から京都へ
往復する新幹線や特急列車(ともに普通車指定席)と、京都市内を中心とするフ
リー区間内での普通列車が利用できる。有効期間は3日間で、京都市交通局や京
福電気鉄道、叡山電鉄の1日乗車券がつく。発売は11月28日まで。
 また、「京都・新選組見聞録パス」は、滋賀県内や阪神地域から京都への往復
と山陰線京都-二条間のフリー区間で普通列車を利用できる割引切符。新選組屯
所跡の「八木邸入場券」がセットになっている。12月19日まで販売する。
 4月1日から5月16日まで、寺院拝観やレンタサイクルの割り引きがセット
になった「嵯峨野散策きっぷ」も発売する。4月29日と5月1日-5日には、
神戸-嵯峨嵐山間を1日一往復する臨時快速「嵐山わかば号」を運行する。(京
都新聞)
[3月29日21時0分更新]

北海道の方は必見、乗れたら良いですね。

「スーパー北斗」に土方歳三が登場-函館 【写真】  2004/03/21 03:00
 【函館】札幌-函館間を走るJR北海道の特急「スーパー北斗」の一部の
先頭車両外観に二十一日から、NHKの大河ドラマ「新選組!」副長の土方歳三
が登場する。

 「歳三トレイン」は四編成あるスーパー北斗のうちの二編成。先頭車両の前部
には、俳優の山本耕史さん演じる歳三が縦、横各約三メートルの大きさでお目見
え。後部には歳三と、女優の田丸麻紀さん演じる恋人お琴も。

 ドラマの主人公は近藤勇だが、JRは「北海道は、やはり函館で没し
た土方です」。十二月まで運行する。

新刊案内、
「新選組 高台寺党」 市居浩一  新人物往来社  2800円
高台寺党だけを取り上げた本は初めてだそうです。

寒いですね、ここ倉敷でも雪が舞っていました。

昨夜の金曜、5日、夜7時30分から、私の居住しております岡山のみ
山田方谷の番組が放送されました。
http://ftown.boo.jp/takahashi/houkoku/
この番組は全国放送をする前に地元の岡山だけのプレゼントだと
思っています。本当に素晴らしい番組でした。
方谷先生役とナレーションの寺田農がやはり上手いです。

見ながら打ち込みました、放送のまとめです。

今、山田方谷見ています。ゲストのインタビューも入って
なかなか力が入っています。さすがNHKです。

備中松山藩、借金が10万両、その利子が1万両、10万両は今のお金
で200億円。
参勤交代の駕篭かきでさえ、備中松山の駕籠は担ぐなと言われた。

農民出身の方谷、破産寸前の備中松山藩をわずか7年ほどで赤字を解消させた。

佐久間象山と江戸で佐藤門下で会うが、方谷はいつも論破していた。

厳しい節約や規則よりも、農民・庶民を慈しみ育てよ、利益は
後から付いてくる。

大阪商人の負債の整理、利子の支払いで苦慮していた。
方谷は大阪に向かい、事実を真摯に語り、商人達の心を動かし、
50年という返済要求を受け入れさせたのです。

良い物を売れば必ず売れる、備中クワの誕生です。

他にも備中という名前を付けて売り出した。
今のブランド物の先駆けです。商品などは、山間の小さな藩で
ありながら外国船の持ち船を買い、大阪ではなく江戸に送った。
今で言うアンテナ・ショップです。売上は評判を呼び
売れに売れました。藩そのものを会社組織に変えたのです。

苦しい時にあえて積極的に打ち出した方谷。

経済を改革した後、いよいよ藩札の信用に挑みます。
膨大に乱発され、価値が下がり続けていました。
残っていた藩札をきっちりと返し今で言うと12億円を返します。
その返済を終えた藩札をみなの前で焼き捨てるのです。
一度信用を失ったものは捨て去るべき、と。
これが全国に広まり、方谷の名前は知れ渡ります。

藩の軍隊も作り上げ、特産品の売上で富国強兵が進められた。
まさにオールマイティの方谷。

能力があればどんどん取り上げて育てた。
自ら死ぬ覚悟でやらないと何もできない。

継之助は最初に出てきて、30分たった今も出ています。
逸話がたくさん紹介されています。

武士の給料を減らし節約を実践、しかし、これが武士達の恨みを買い、
命を狙われ、賄賂をもらっているのかと疑われ、方谷は自分の家計
をガラス張りにして公開していました。セットではない、高梁の旧家か
で収録されているので「臨場感」がたっぷりです。継之助が麦飯を食べて
「義」の教えを方谷から学んでいる場面があります。

商人や農民にも学問を奨励し、寺子屋もたくさん出来ました。全日空の
社長も会社の改革をするに当たって、方谷の本を読んで勉強していると
出ています。強い意志の元、背水の陣で臨まないと構造改革などできな
い、とのこと。7,8年で改革を成し遂げたのは非常に参考になるとのこと。
日本再生の知恵を今、教えてくれるように思います。

継之助は人生で最も充実した日々を送れたと方谷に告げ、真心と痛みを
分かることができたら、物事は上手く運ぶでしょう、との教えを方谷から。
二人でクワ持ち耕す場面で継之助の出番は終わりました。方谷先生の
愛用の大きなヒョウタン(本物)も出てきました。方谷といえども、
妻に二度逃げられたこともあったそう。
全国の志士からの手紙が今も山田家に保存されています。方谷、
吉田松陰の遺体を掘り起こすのを幕府に掛け合いました。

継之助、死ぬ間際に備中松山に行くことがあったら方谷先生に
伝えてくれ、継之助は生涯先生の教えを守ったと、と付き人に
伝えています。涙がでてきまました。

大久保利通は明治政府にと招きましたが、方谷先生は年が寄っ
ているからと断っておられます。明治の大臣になっていたら、
どんな大臣でも、何をしてもできたでしょう、万能の人ですね。
奇跡と呼ばれた方谷の財政改革、150年を経過して再び注目を
浴びようとしています。生涯、義の姿勢を貫き通した方谷、
改革への確かな道を迷っている現在日本に良い手本、日本に
よくあった手本が示されている。弱肉強食のアメリカ流では
なくて、日本にあった改革は方谷にあるのではないか。

貴重な資料も紹介されています。こんな資料はなかなか目
に出来ません。商人や農民にも学問を奨励し、寺子屋もた
くさん出来ました。

番組が終わりましたが、15分ほどの方谷先生の足跡を紹介
しています。高梁高校の石段、先生がよく歩いていた場所
だそうです。高梁の町をゆっくりと紹介しています。

食べ物の最新の値段をいつも知っていた、庶民の暮らしを
よく知っていた。
月一度、方谷会がお墓参りしている様子、盆踊りにも先生
を褒める歌詞が入っている。ここまで、今、現在も地元の
方に親しまれ、うやまれて誇りに思う、大切にされている
方谷先生、藩主さえ、方谷の教えを守り農作業していた。
地元の方谷会の方が貴重なお話をたくさんしておられます。
高梁ではいろいろな視点から
方谷研究がされています。庄屋のネットワークを作り、
農業の情報を得ていた方谷、情報が命の農業をしっかり
把握していた。方谷林公園、高梁を望む小高い丘に作
られています。方谷先生の漢詩の碑があります。方谷
先生は生涯に1500の漢詩を残されました。

人間としての幅の広さが今なお人々に愛されている方谷
先生。高梁、今も方谷が息づく町です。   

ナレーションをできるだけ忠実に打ち込みました。
内容が少しでも味わえましたでしょうか。

* ダビングテープを400円(テープ、送料、封筒代全て込み)
  の実費でお分けします。郵便小為替・郵便振込み・
  銀行振り込み、いずれでも可。

  私までDMを下さい。

ちょっと今日は暖かかったですね。
風邪を引き、鼻の下に熱の花ができて、恥ずかしいので
マスクをして外出しているのですが、花粉症ですかと
言われるようになりました。春近しですね。

さて、芹沢鴨、下働きのお婆さんはとても良い人だったと
言い残しています。
でも、あの吉良上野介も地元では評判が良かった。
大河ドラマ「新撰組!」前半の山場はやはり芹沢が
いてこそですね。
彼がいなければ新撰組もワサビが効いてないですね。
しかし、彼の鉄扇、どんなんやったんでしょう。
今も現存しているんでしょうか。
見てみたかったわ。

昨日の伊東成郎さん深夜ラジオ放送のまとめです。

土方の写真を新撰組を知らない20名ほどに見せたら、
明治・大正期の法律関係の人と答えた人が多かった。
女性が定期入れに入れているのを目撃したこともあ
ります。講演会に来てくれる人も女性が多いです。

江戸から京都へ、清川八郎のあの言動のため江戸に多く
帰ってしまい、24名からのスタートだった。最初は修学
旅行生のようにぞろぞろと御所を見学したそうです。

池田屋の息子が明治9年に事変当時のことを克明に記した
資料を京都市に提出しています。その資料の存在はつい
先日分かりました。それで、このことは今始めてここで
お話します。
吉田稔麿(24才)、当日の夜10時に池田屋に到着し、帳場で
手紙をあちこち届けさせています。それからすぐ十数名集
まってくるのですが、近藤らが池田屋に突入したのもその
10時あたりで、どうやら、近藤達は吉田に呼び出された人達
が入っていくのを目撃したから分かったのではないかと思っ
ています。古高奪還のため新撰組を襲おうと話していた時に、
その新撰組が押し入ってきた、吉田達の慌てぶりは想像を
絶するものだったでしょう。茶碗や皿も投げつけたと資料
に残っています。翌朝の6時から7時まで池田屋のみならず
市中大捜索して逃げた者達を捜索していた。

壬生浪士、かえるの行水、などと呼び捨てられ、北海道に
行っても尚、新撰組とは呼ばれず、壬生浪士と呼ばれていた。

浅黄色のあの隊服は当時の死装束の色で、処刑される者が
着る色合い、しかし、武士は好んだといいます。五年間で
20人未満の浪士を斬り、新撰組は捕そくを多くしていた。
身内は40名以上を粛清した。六年あまりの存続、しかし、
その存在感は凶暴・悪役なれど、彼らの存在の面白さは
比べるものとてない。

永倉新八、歴史が用意した語りべ、彼がいなかったら
こうまで新撰組のことは分からなかった。近藤は薩摩の
多くの要人からも武士として死なせてやりたかったと
いう言葉が多く残されている。

ある隊士の墓に添えられたノートに、
「妥協しない青春て好きだ」の一行、思わず自分の
ノートに書き写したほど心に残る一言でした。

では、また。

とうとう、今年二度目の風邪を引いてしまいました。
インフルエンザが流行っていますので、くれぐれも
ご注意下さい。

さて、札幌雪祭り、今年は五稜郭築城140周年でもあり、
その五稜郭と土方歳三の雪像が造られていると耳にしました。
北海道の友達に行ったら写真を写して来てと頼みましたが、、
どんな土方像が造られているのでしょうか。
一見の価値ありでしょうね。

では、今書店に並んでいる「歴史街道」2月号 
近藤勇と新撰組、続きです。

「選」と「撰」どちらが正しい?  山村 竜也

 隊名を与えた会津藩側では「新撰組」(新撰組という名称は会津藩に
 かつて存在した武闘集団)という意識があったとしても、与えられた
 近藤側にはそれほどのこだわりがなかったということ。当時は現在
 と違って、漢字の表記についてはとてもおおらかで、音さえ合って
 いればどうでもいいというようなところがあった。現代の我々に
 とっては「選」か「撰」かは重要な問題であっても、当の彼らにして
 みれば、取るに足らないことであったのかもしれない。

隊服は黒ずくめだった?     山村 竜也

 デザインが派手で、素材も夏向きの麻であったため、見た目にも安っぽく
 製作当時こそ使われていたが、次第に誰も着なくなったという。最後に
 目撃されたのは、池田屋事変の時であったから、その後、間もなく廃止
 されたと考えられる。使用期間は2年も満たない短期間であった。それ以後
 はの制服はというと、肥前藩士の記録によると慶応三年のある日、京都
 市中での記述に「黒衣黒袴、問わずしてその新撰組たるを知る」という
 箇所がある。断定することはできないが、ありえる話ではある。

今、書店に並んでいる「歴史街道」2月号 近藤勇と新撰組、
読みました。
ここのみなさんもお読みになった方も多いと思います。

ちょっとメモ書きみたいに打ち出してみました。

最後まで人を惹きつけた不思議な魅力  岳 真也

 「池田屋事変」のおりのこと、共に戦っていた永倉新八や
 藤堂平助らが負傷し、沖田総司が持病で倒れても、なお、一人
 気を吐いて戦闘を続行した。灯火は全て消され、互いに手探り
 の斬り合いである。この時、戸外にいた谷三十郎が「近藤先生
 のものすごい気合が聞こえた」と述懐している。そうした気概、
 戦う姿勢は、彼に従う者にとっては、良い手本となる。これこ
 そは、近藤勇がトップになり得た第一の要件といえる。しかし、
 近藤勇は蛮勇の人ではなかった。武辺一途ではなく、頭も冴え、
 冷静さも兼ね備えていた。

 まだ勇らが江戸にいた頃、経営難で妻のツネが「生計も成り立たぬ
 のに、何故食客をおいたりするのか」と恨み言を言うと「粥をすすって
 でも、おのれの元に頼ってきた者を見捨てることはできぬ」と
 きっぱり言い切っている。

 食客とは、いつの間にか道場に住み着いてしまった永倉新八や
 原田左之助、山南敬介らのことだが、この話にみられる勇の「侠気」が
 彼らが勇と行動を共にした大きな理由の一つだろう。土方などとは
 違い、美男とはいえぬ顔立ちながら、勇が京の妓たちにもてはやされ
 深雪太夫をはじめ、幾人もの愛妾を得たのにも、そういう彼の「心
 やさしさ」が絡んでいたような気がする。

                  続く