みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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寒くなりました。今日、灯油を注文します。
つい一週間ほど前は半そでを着ていたのに、急激ですよね。
風邪を引かないように注意してくださいね。

さて、龍馬直筆の茶碗が発見されたとのこと、幕末から140年あまり
まだまだ未発見の品が、、、だから幕末は面白いんですね。
以下、お読み下さい。

2005年10月02日

龍馬直筆の茶わん発見 山口・萩の旧家

 坂本龍馬の直筆入り茶わん見つかる―。山口県萩市の旧家に伝わる
萩焼の茶わんがこのほど、龍馬が萩を訪れた1862(文久2)年に名前や絵を
書き入れたものと分かった。同市の吉田松陰研究家と京都・霊山歴史館の木村幸
比古学芸課長が確認した。一緒に筆を入れたと考えられる松陰門下生らとの交流
も浮かび上がっている。

 茶わんを所有するのは同市の斉藤兼太郎さん(71)。斉藤さんの祖父が
維新前後に手に入れ、龍馬が筆を入れた茶わんと伝えられていた。これまで一部
では知られていたが、確かなことは分からないまま。そこで同市の松陰研究家・
三輪正知さん(35)が調査を申し出た。

 茶わんは外側に松林の絵と「龍馬」の名前が記されている。反対側に
は明らかに別の筆跡で、茶わん内側から外側に続く山の絵と「豊嶺」「雪鶴」
「玉枝」の文字がある。内側には1羽の鶴が描かれている。

 「これまでに見た方は玉枝を女性の名前ととらえていた」と三輪さん。
調べると現在は玉江という地名が、幕藩期は玉枝と書かれたことが分かった。玉
江地区から茶わんの配置通りに考えると、横の山は指月山。少し離れて菊が浜の
松原と、ぴたり当てはまる。この構図を見られる場所は、松陰の菩提(ぼだい)
寺である泉福寺の付近に限定される。

 三輪家は萩焼の卸や小売りを行う専門店を営む。茶わんの土や焼き具合を
調べると、長州藩の御用窯だった坂窯の文久年間の作品に同様の物が現存してお
り、龍馬が訪れた年代とも一致した。

 豊嶺は萩城のあった指月山を指す。龍馬が訪れた時は大雪だった。
雪鶴は城のある山の上を高く飛ぶ鶴が、松陰をイメージしていると考えた。

 絵の内容を明らかにした上で、「龍馬」の筆跡を木村課長が鑑定。
資料と比較すると、1867(慶応3)年6月に木戸孝允にあてた書簡のサイン
などとほぼ同じだった。木村課長は「龍の字の最後のはね方は完全に龍馬のもの」
と話す。

 龍馬が萩を訪れたのは文久2年の一度だけ。前年に土佐勤王党に加盟し、
武市瑞山の書簡を長州藩の久坂玄瑞に渡すための訪問だった。久坂の日記「江月
斎日乗」は、龍馬が1月14日から10日間滞在し、面談したり松陰門下生と会っ
たと記述している。

 ところがこの間に、久坂は風邪で寝込んだと書いている。「(松陰門下生に)
龍馬を案内してやってくれとなったのでは」と木村課長と三輪さんは推察する。
龍馬と会った松陰門下生の中に画家、松浦松洞がいる。松陰の菩提寺を案内して
しのびつつ、龍馬は茶わんに松原を描いて名前を入れ、プロの松洞が山や鶴など
を加えて仕上げたと推測した。

 龍馬はその2カ月後に土佐藩を脱藩した。松陰門下生と熱く語り合った日々が、
龍馬の決意に影響した可能性もある。

 【写真説明】松林の絵と龍馬の筆跡と確認されたサイン(茶わん外側の一部)

http://www.kochinews.co.jp/0510/051002headline01.htm#shimen1

こんばんは、みちこです。

もう今年も後二ヶ月ほど、今年は京都には何度も行きましたが、
史跡めぐりができませんでした。でも、GWに鹿児島に行けたので、
良しとしましようかね。来年は長崎の予定です。楽しみです。

さて、今、ヤフーを見ましたら、

将軍コーヒー、お味はいかが?=徳川慶喜のひ孫が再現-千葉

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が飲んだとされるコーヒーを再現した
「将軍珈琲」を味わう会が30日、千葉県松戸市で開かれた。慶喜の弟で最後の水
戸藩主、昭武が余生を過ごした「戸定(とじょう)邸」が会場となり、参加者ら
は明治期のレトロな服装に身を包んだウエートレスに給仕され、歴史のロマンに
思いをはせた。
 慶喜は1867年、将軍就任のお披露目などのために欧米4カ国の公使を
大坂城に招いた際、フランス料理のフルコースでもてなし、食後にコーヒーを振
る舞ったとされる。同市戸定歴史館の斉藤洋一学芸員(47)によると、日本で初
めて政府の公式行事で飲まれたコーヒーだという。
 将軍珈琲は、慶喜のひ孫に当たる写真家徳川慶朝さん(55)が2002年、
茨城県のコーヒー会社と協力して再現。当時の記録などを参考に、インドネシア
産のアラビカ種の豆を炭火でばいせんした。「濃いけれども苦くない」のが特徴
という。 
(時事通信) – 10月30日18時0分更新

今朝の日経では、作家の山村竜也さんが紹介されていました。
東京都の職員をしておられるそうですね。NHKの「新選組!」の時代考証もされて
おられ、著書も20冊、「新選組!」の最初の方の場面で、近藤・土方・龍馬・小
五郎が四人連れ立って黒船を見に行く場面がありましたが、脚本家の意図をくん
で、ギリギリOKを出したとか、私だったらOKは出さないな、私はあの場面で
ズッコケタもの。

以上、幕末*深夜のつぶやき、、でした。

では、おやすみなさい!

みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。
この週末は京都では時代祭です。昔、行った事が
あるのですが、最近、なかなか行けません。
幕末関係が主力なんですねぇ。

関西の方、是非、見に行ってください。

http://craft.kyoto-np.co.jp/craftichiba/machiya/ikedaya.html

行列の主役たち
 明治維新から始まって時代を逆戻りして平安遷都までの歴史絵巻き再現した。
歴史の教科書に出てくるさまざまな人物が次から次へと登場する。
(1)維新勤王隊列

 維新の際、京都府北桑田郡山国の有志が山国隊を組織して、官軍に
参加した当時の行装を模した。鼓笛隊が先頭を行く。

(2)幕末志士列

 明治維新の立て役者となった志士計14人が「七卿落」列をはさんで
次々と登場する。

・桂小五郎(かつらこごろう)1833-1877 萩藩士。のちの木戸孝允。
西郷隆盛、大久保利通と共に維新三傑と称される。

・西郷吉之助(さいごうきちのすけ)1827-1877 薩摩藩士。
藩主・島津齊彬に抜擢されてNo1に。第一次長州征伐では幕府軍の主力となるが、
坂本龍馬の説得で薩長同盟を結んだ。西南の役で自刃死。

・坂本龍馬(さかもとりょうま)1835-1867 土佐藩士。
日本初の商社・亀山社中の創設者、薩長同盟の立て役者など維新最大のヒーロー。
慶応3年京都で暗殺された。享年33歳。

・中岡慎太郎(なかおかしんたろう)1838-1867 土佐藩士。
龍馬と並んで維新に奔走したが、京都で共に暗殺された。享年30歳。

・高杉晋作(たかすぎしんさく)1839-1867 長州藩士。
農民、町民の軍隊・奇兵隊を創設するなどしたが、「維新の夜明け」を見ること
なく病死した。

・梅田 雲浜(うめだうんぴん)1815-1859 志士。元・若狭小浜藩士。
藩政を批判し、武士の身分をはく奪される。尊王攘夷を唱え、ロシア艦襲撃を企
てた。安政の大獄で江戸の獄舎で病死。

・橋本 左内(はしもとさない)1834-1859 越前福井藩の志士。
緒方洪庵らに蘭学・医学を学び、藩主松平春岳に認められて藩政革新に当る。安
政の獄に座し斬罪。

・吉田 松陰(よしだしょういん)1830-1859 長州藩士。兵学に通じ、
江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に関心を持ち、1854年(安
政元年)米艦隊渡来の際に下田で密航を企てて投獄された。のち萩の松下村塾
(しょうかそんじゅく)で高杉晋作、桂小五郎ら多くの維新の志士を教育した。
安政の大獄に座し、江戸で刑死。

▽七卿落(しちきょうおち)

 1863年(文久3年)8月、討幕計画にやぶれた三條実美ら尊攘派の
公家7名が長州へ落ちのびた事件。ミノをかぶった7人の公家を、よろい姿の久
坂玄瑞ら3人の武士が護衛している。

・真木 和泉(まきいずみ)1813-1864 志士。

・久坂 玄瑞(くさかげんずい)1840-1864 長州藩士。吉田松陰の妹婿。
兵学を松陰に、洋学を藩校に学ぶ。尊王攘夷を唱え、1864年(元治元年)兵を率
いて京都に入り蛤御門(はまぐりごもん)の変で会津・薩摩等の兵と戦い負傷、
自殺。

・三條 実美(さんじょうさねとみ)1837-1891 公卿。明治維新の功臣。
実万(さねつむ)の子。尊王攘夷運動の先頭に立ち、維新後太政大臣。内閣制発
足後は内大臣。

来週の「その時 歴史が動いた」 戦艦大和の悲劇ですね。
リクエストが多かったので再放送だそうです。
個人的にメールでの質問があったので、ご説明しておきます。

呉にあるのが、大和ミュージアムで、大和の十分の一の模型が展示されています。
http://yamato.kure-city.jp/exhibition/exhibition.html

尾道には、今年12月に公開される「男たちの戦艦大和」の映画で
作られたロケ・セット原寸大の前半分が展示されています。
来年の3月31日までの期間限定です。
http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/yamato/yamato.html

さて、今日、本屋に行って飛びついて買ってきた本です。

「幕末歴史散歩 京阪神編」 今も関西に残る幕末へ  中公新書

内容の濃い一冊です。今までの史跡案内と比べると格段の差、
是非、おススメ、980円+税と少し高いけど、充実した内容です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121018117/qid=1127404551/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/250-3444894-0822657

では、良い休日を!!

いよいよ二学期が始まって、みなさん、どうですか?
文化祭もあるし、運動会もあるし、行事がたくさん!
みなさんの活躍をお祈りしています。

さて、8月31日付けの日経、社会面の「窓」を読んでいて嬉しくなりました。
歌舞伎の中村勘三郎さんが年末のテレビドラマで幕末の長岡藩家老河井継之助を
演じることから長岡市で無料公演を開催とありました。

山古志村の復興支援するそうです。この話も美談ですが、年末のテレビドラ
マで幕末物をしてくれるのは嬉しいです。

勘三郎さんが継之助をするということは、継之助が主役という分けですね。

調べましたら、長岡藩士の生きざまを描く「河井継之助―駆け抜けた蒼竜」
(日本テレビ、12月末放送)に主演とのこと。
NHKでは、「新撰組」の続編をお正月にしてくれるそうですし、年末年始は、
たっぷりと幕末が堪能できますね。

みなさん、お元気ですか、みちこです。

今日(もう一昨日になりますが)は、暦の上で暑さが収まるという処暑
という日だそうです。
やっと涼しくなって、暑さのぶり返しはないように祈ります。

いろいろと忙しくて、パソコンに向かって、幕末の独り言を言う
時間がありませんでした。読書はできる状態でしたので
10冊ほど完読できました。先ほど、読み上げたのは、「ニコライ遭難」
吉村昭・著、明治24年 ロシア皇太子を警護の巡査が襲った事件です。
ここでも西郷さんが出てきます。西郷さんは西南の役で亡くならず
ロシアに逃げて皇太子と共に帰国する、という噂が日本中に
広がっていた、、、義経のジンギスカン伝説と同じですね。

襲った巡査は、政治家は死刑にしろと圧力を掛けますが、
司法はそれを避けて終身刑にした。裁判官は龍馬が育てた人物、
内容の濃い一冊でした。
吉村昭さんの本は奥の深い充実感を味わえます。

暑中お見舞い申し上げます。

7月17日、祇園祭に行って来ました。
京都の友達に案内してもらい、細い道で待ち構えていました。

昼の山鉾巡行の稚児さん、祇園祭は女人禁制で三ヶ月前から
男衆に身の回りの世話をしてもらうから、彼らの食事飲み代等など、
着物も今年新調したし、、3,500万出しはったって、
馬に乗ってはる人は200万、、、、お商売してはる人でないと
払えませんね、山鉾はだいたい10トンの重さです、などびっくりする
話ばかりで、継承維持するのは並大抵ではないですね。

山鉾巡行は毎年17日の午前中なので、今までなかなか見られませんでしたが、
NHKなどの特集で知識を得ていたゴブラン織りの見事さは格別でした。

この山鉾巡行、幕末の志士達も、明日の命の明暗も暫し忘れて
笑顔を浮かべたであろうと思うと、タイム・スリップしたような
気分でした。

この画像をお送りしますよ、私までメールを下さいね。

では、また。

九州旅日記、その2です。

鹿児島市内に黎明館(れいめいかん)という明治百念を記念して
昭和58年に開館した歴史資料センターがあります。

ここで西郷さんの軍服を見ることができます。なるほど、とても
大きくて生前の西郷さんを彷彿とさせてくれます。もう一つ、
印象に残っているのが、大久保利通・愛用の洗面セットとでも言い
ましょうか、ヘアーブラシ・コップ・洗面桶・・、色はなんと鮮やかで
冷ややかなセルリアン・ブルー、ブラシに残っていた頭髪から
大久保の血液型は O 型。色合いから大久保の冷徹さが頭を過ぎりましたが
血液型を知り、なぜかホッとした私でした。

さて、その西郷と大久保、維新後の彼らの様子を知る逸話があります。
政府高官に収まると贅沢三昧が高じた大久保、イギリスに高価な軍刀を
発注します。それを聞きつけ、西郷はその軍刀を借り、なかなか返さずに
いました。大久保が催促すると、「あの軍刀なら、書生が欲しがるのでやった」
と西郷。維新後、政府高官らは驚くほどの高給を取り、壮大な邸宅に住み、
蓄財した。だが、西郷だけは、給料は人民の血税、私財を蓄えるのはもって
のほかと質素な生活を送っていた。西郷は大久保に対して不信感がつの
っていったという。

また、西洋諸国の良い点も悪い点も、全てひっくるめて模倣しようとす
る新政府の欧化政策に対して、西郷は大きな懸念を持っていた。
政治家としての素質は十分にありながらも、西郷が最終的に政治家
として道を歩むには、その心中が清廉過ぎたのかも知れません。

西郷さんの話はまだまだ続きます。

さて、今日は、桐野利秋の話を追加です。
亡くなった時、桐野の遺体にはフランス香水が漂っていたそう。
しゃれた人だったのねと思っていました。

田原坂での敗戦の後、一路鹿児島へと向かった。二週間以上にも渡って山中を
さ迷よったことから衣服は無残なまでに破け、ボロボロになっていた。
そのため、鹿児島に突入した薩軍は、政府軍が残していった衣料品などの
数多くの物資を手に入れ、桐野もまた自分に合う服を見つけていた。その
洋服には、なんと桐野にぴったりの大きなシルクハットもついていた。
桐野は常にそのシルクハットを被って、兵士達を叱咤激励。その桐野の
勇躍した姿は、非常に雄々しいものであったと伝えられています。

死後、そのシルクハットは政府軍の持ち主に戻されたという。

桐野は持ち主に丁寧な礼状を認めていて、持ち主はその手紙を深く愛蔵していたと
伝えられています。というわけで、そのフランス香水はその政府軍高官の
品だったというオチでした。

次週、5月25日の「その時、歴史が・・」は西南戦争がらみのお話。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/sonotoki_yotei.html

                    旅日記、つづく

お元気でお過ごしでしょうか。

5月のGWに九州縦断往復920キロ旅して来ました。

小倉まで新幹線、それからレンタカーを借りて南下し、まずは熊本の田原坂へ。

田原坂資料館には当時の大砲や小銃などの武器をはじめ、すさまじい
銃撃戦の戦争後の写真などが展示されています。また現地には西南の
役戦没者慰霊之碑、激戦の様子をまとめている碑文もありました。
そのうちの一枚を写しました。
ご覧になりたい方は私までDMを下さい。写真は4枚あります。
写真3の銃弾の跡も生々しい倉は復元品です。

当時、大砲や軍事物資を載せた馬車の通る広い道はこの道しかなく、
田原坂の強行突破を計る官軍は、左右の高い土手や正面の雑木林から
姿の見えない薩軍に銃撃され、退却しようとすると前後に回り込んだ
薩摩兵に切り込み攻撃を受けこの坂を抜くことができず、何の変哲も
ないわずか1.5キロメートルのこの坂を巡って、3月4日から
17昼夜にわたる激しい攻防戦が展開されたのです。参戦者約10万人
死傷者3万6千人、ここ田原坂では死傷者6千5百人。

官軍は一日30万発以上の銃弾を消費、これは20年後の日露戦争での
旅順要塞攻撃時とほぼ同じ数。輸入されたばかりのワインや牛肉の缶詰を
楽しむほど物資が豊富で、ワインのビンも資料館に展示してありました。
鍋を 鋳つぶして弾丸を造っていた薩軍とは大違い。

有名な「空中かちあい弾」(両軍の放った弾丸が空中で衝突し、融合した
もの)も、 一つや二つでなく、バケツ一杯ほども展示してあって、
近代戦のすさまじさを物語っていました。兄弟5人が薩摩軍に参戦し、
全て亡くなり家系が途絶え、その兄弟の写真がありました。三男は笑って
写っていましたが、西郷さんらと共に戦い幸せだったのかな。

田原坂はツツジが満開で、とても風光明媚な所でした。それらに見とれ
ていると、背後にあるおびただしい名前が連なっている慰霊碑のなんと
重いこと、、。その前で心から合掌している青年を見て、125年前
の戦い散った青年達の姿とだぶりました。

                    つづく

西南の役とは、、

明治政府は廃藩置県や地租改正を進め、封建から近代国家への歩み
を進めていったが、旧藩閥の対立や戦争、官僚の汚職・職権乱用
事件などを抱え、新政府内は決して安定したものではなかった。
また、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の
不満が徐々に高まっていった時期でもある。

 その状況のなか、明治6年に参議・近衛都督の職にあった陸軍大将・
西郷隆盛が、いわゆる征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野。
西郷の後を追うように、桐野利秋・篠原国幹の両陸軍少将をはじめ
宮内大丞・村田新八ら政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人
約600人も大挙して辞職し帰郷した。

これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と
政府に残った大久保利通派に大きく分裂することになる。  
帰郷した桐野利秋・篠原国幹らを中心に士族中心体制が構築されつ
つあるなか、明治7年に私学校が開設される。藩政の骨格がその
まま私学校の組織に再編成され、役人の人事も中央に従わず、
鹿児島はさしずめ独立王国の観を呈していた。明治維新を成し遂げた
薩長土肥のなかでも、抜きんでた力を誇る薩摩藩の軍事力はそのまま
健在であり、また反政府感情も極めて高かったことから、中央政府に
してみればいつ爆発してもおかしくない爆弾のようなものであった。

明治7年2月、江藤新平らによる「佐賀の乱」が起こっていた。
明治9年の廃刀令や金禄公債証書発行条例などの公布でますます
士族の不平が高まるなか、同年10月には熊本「神風連の乱」・
福岡「秋月の乱」・山口「萩の乱」など、その思想的背景は必
ずしも同じではなかったが、立て続けに士族の反乱が起こる。
相次ぐ反乱にも関わらず沈黙を守っていた薩摩は西郷の威望に
よりその爆発力を押さえ込んでいたのである。

鹿児島の処遇について、長州藩の木戸孝允は薩閥の代表である
大久保の責任を厳しく追及。木戸の突き上げにより大久保は、
腹心であり、同じく鹿児島出身の大警視・川路利良らと善後策を図る。
川路は12月に鹿児島出身者の23名を密偵として鹿児島に潜入させ、
状況の視察と私学校関係者の離間工作を指示。政府はこれに呼応して、
鹿児島にあった陸軍省所管の武器弾薬を秘密裏に持ち出そうとする。

これを政府の露骨な挑発と受け取った急進派の私学校生徒は、
桐野や篠原ら私学校幹部に無断で火薬庫を襲撃。さらに密偵の
大量逮捕によって、真偽は不明ながらも西郷暗殺の計画が流布
されるに至っては私学校側も激昂する。 火薬庫襲撃事件が
私学校に対する弾圧の口実となった政府との対立は決定的と
なっていた。予期せぬ火薬庫襲撃事件に西郷は「汝どま、弾薬に何の
用があっちゅうとか!ないごて、追盗っせえ!(お前たちは弾薬に何の
用があるのか!どうして盗んだのか!)」と幹部を前に激怒したという。
しかしながら、私学校幹部ほか挙兵決行の意思が強いのを知ると、
ついに西郷も決意。ここに運命の振り子が大きく振られたのである。

関西に30年間住んでいたので、特に今回の尼崎の事故は心が痛みます。
JRは阪急に対抗するため、あまりにも速度をあげて対応して
いたようですね。密集地をかなりの速度で走り抜けて、安全という
ものを置き忘れていたのでしょう。インタビューで答えていた
女子大学生の言葉が心に残ります。
「お願いですから、こんな事故はもう二度と起こさないで下さい」
 泣きながら、友の死を悼んでいました。
亡くなった方々のご冥福を心から祈ります!

さて、私、GW に薩摩に行くことになり、鹿児島の史跡めぐりのお話を
期待していて下さい。

行きます、田原坂! レンタカー借りて知覧まで行く予定です。

さて、「長岡藩軍事総督河井継之助―武士道に生きた最後のサムライ」
ベスト新書 (73)  星 亮一 (著) 価格: ¥819 (税込)を読み終えました。
前半はさらっと復習のような形で継之助の人となりをおさらいし、最後の
盛り上げ方が上手く、感動的に読み終えました。

中で心に残った箇所は、二箇所ほど、

方谷は継之助が自費で来た事に感心し、「昨今の官使は公金を
使うことばかり考えている。それが国を滅ぼす」、、、

   誠に、今の日本の姿、そっくり。

小千谷談判での土佐の岩村精一郎、わずか23歳、河井の人物経歴は
今になってようやく知ったところで、当時は知る由もなかった。
後に門衛に聞くと、河井はなおも幾度となく、本陣の門に来て、再度の
面会を請い、深夜までその附近を徘徊して、しきりに取り次ぎを求めた。

   あーーっ、この箇所、悔やまれる部分ですね。

継之助の気風は長岡人に強く受け継がれ、山本五十六ら多くの俊英を
輩出した。「時として人間は命をかけねばならない」という
大きな命題を継之助は今の世に残した。

   政治家に是非、心に刻んで欲しい言葉です。

 では、また。