みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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昨年の二月からずっと歯科医院に通っています。そこの待合室にあった今月号の「ニュートン」、つい手に取り、目が点になりました。

「 学問の歩きオロジー
  共立学校・開成学園創立者 佐野鼎(2)
  ―ヨーロッパ各国を歴訪する」

万延元年遣米使節団と遣欧使節団に加わった佐野鼎(さのかなえ)を特集していました。
小使賄方兼(加賀藩士)という身分の低い役職でしたが、世界を見てやろうという気概に富んだ人物でした。

1860年、日米修好通商条約を批准するために日本がアメリカに使節を派遣したさい、ポーハタン号に福沢諭吉など日本の優秀な人材を乗せてハワイ経由でアメリカに渡った、その中に幕臣益頭駿治郎の従者として乗った佐野鼎がいた。佐野は、いち早く西洋の学問に目覚め、砲術家として名だたる地位を築いていた。当時のニューヨークタイムズは佐野の優秀さを激賞している。佐野はその後も多くの業績を残している。開成学園設立もその一つで、英語教師としてイギリス人オスボーンを招聘している。

コレラで若くして亡くなりますが、思わず手に取った、科学誌「ニュートン」で幕末維新の偉人を再認識しました。

万延元年遣米使節といえば、9月25日、みなさん、お集まり下さいね!

●「万延元年遣米使節150周年記念」  後援 外務省
       日時 9月25日(土)午後1時~4時
       第二部 記念講演会 午後2時~4時
       講演者 星 亮一 (歴史作家)

おめでとうございます!
山本三郎さまが出版なさいました。
題名は、「仙台藩士幕末渡米記」です。
定価2100円(税別)

お問い合わせは出版社「荒蝦夷(あらえみし)」までお願い致します。
電話022-298-8455

題名にある仙台藩士とは、みなさま、ご存じの玉蟲左太夫のことです。
山本さまは、ご子孫にあたられます。
星先生が解説を書いておられます。
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150年後子孫が現代語訳出版西洋文明克明に記録

出版した本を手に、玉蟲の魅力を語る山本さん 幕末の動乱期、幕府使節団の一員として渡米した仙台藩士・玉蟲左太夫が記録した、「航米日録」の全文を現代語訳した「仙台藩士幕末世界一周」が出版された。翻訳したのは玉蟲から5代目の子孫にあたる仙台市の山本三郎さん(74)。玉蟲は武士の常識にとらわれず、民主主義の理念をくみ取り、西洋文明を詳細に記録。今年は渡米から150年後にあたり、山本さんは「幕府使節団や玉蟲のことを若い人にも知ってほしい」と話している。

◆咸臨丸が随行

 玉蟲は1860年1月に日本を立ち、日米修好通商条約の批准書交換のため、幕府正使が乗ったポーハタン号の一員として渡米。勝海舟らが乗った随行艦が咸臨丸だった。一行はニューヨークで10万人の市民から大歓迎を受けるなどして、アフリカ、インド洋を巡り、同年9月に帰国した。

 航米日録は全8巻あり、出発から帰国までを記録した7巻までは、正式な記録として仙台藩に献上された。8巻は個人的な感想が記され、当時の体制を批判する意見も書かれている。

 翻訳本は1~7巻を巻ごとに章立てし、時系列で紹介。8巻は「三郎のひと言」として、関連個所に山本さんの解説付きで挿入した。

 玉蟲は太平洋を渡る途上、アメリカ人の艦長が水夫と一緒に嵐に立ち向かい、すぐに全員に報奨金を出したことに感銘を受け、「このようであるから、一旦(いったん)緩急の時には全員が身を忘れて力を尽くすのだ。この国が盛んな理由も、こんなところにあるのであろう」と記した。病死した水夫のため涙を流す艦長に対し、自国は「上下の情は誠に薄く、彼らに対して恥ずかしい」と封建体制に批判的な意見も明かしている。

 西洋文明への関心は高く、蒸気機関や汽車には特に興味を示した。水洗トイレやシャワー、洗濯機などについても使用法や仕組みを観察、克明に記録。料理にも触れ、ビールは「苦味なれども口を湿するに足る」と感想を残した。

◆列強に警戒感

 一方、当時、アジア進出を目指す列強への警戒感もにじむ。ハワイで会った中国人の薬商からは、英国人について「野蛮人で虎やオオカミに等しく、心は残忍で聖道とは全く相反している」と聞かされた。サンフランシスコでは友人が現地の中国人から聞いた話として「米国は最初は親切だが、用心しなければいけない」との助言が紹介されている。

 「玉蟲は武士階級を超えたやわらかい頭で客観的に物事をとらえ、幕府や薩長ではなく日本ということを意識していた。坂本龍馬と同時代に、そういう傑物が仙台にいたことを知ってほしい」と山本さんは話す。

◇玉蟲左太夫 

 1823年に仙台藩士の家に生まれたが、脱藩して江戸に。57年蝦夷(えぞ)地と呼ばれた北海道や樺太を巡行、気候や風土、アイヌの生活様式などを「入北記」にまとめた。渡米後は再び仙台藩士に取り立てられ、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の結成に尽力し、その後、責任を問われて69年、切腹した。

(2010年9月7日 読売新聞から転記しました。)

みなさま、酷暑の夏、お元気でお過ごしでしょうか。

近くの大型書店が、今年末で店仕舞いをするとのことで、日参しています。JR倉敷駅が、高架になる予定で、駅前開発のため、駅ビル内にあるこの大型書店は閉店するのです。

倉敷駅前にチボリ公園という大型娯楽施設があったのですが、経営難で廃園になってしまいました。その壮大な跡地をどうするのかとヤキモキしていましたら、アウトレット・モールができるということです。再び、新設の大型書店のできることを期待しています。でも、完成は来年末ということで、この先一年は、近くに書店がなくなるという「悲運」とあいなりました。

太平洋戦争の真っ只中、戦地に赴いた読書好きの兵士たちは、活字に飢えて、薬の説明書でさえ、何度も読んでその飢えを凌いだらしいですね。そんなお話を聞いたことがあります。今の世の中に生きている私達、本を選べて読めるという恵まれた境遇にあります。出版社や書店は、このところの不況で大きなダメージを受けています。ネットやテレビで余暇を過ごすより、本屋に行き、本の印刷の匂いの中で、本を手に取り選んで読書の習慣をつけたいものです。

● 星亮一先生、東京八重洲ブックセンター講演会開催!!

      場所:八重洲ブックセンター本店8階ギャラリー
      テーマ「明治維新の真実」 9月16日(木)    

           開場 18:00 講演18:30~19:15   質疑応答19:15~19:30

           サイン会19:30~20:00 終了後、懇親会があります!

 

● 万延元年遣米使節150周年記念式典のお知らせ !!

         会場    横須賀芸術劇場小劇場(ヨコスカ・ベイサイド・ポケット)  

                                          横須賀市本町三‐二七(京急線汐入駅から徒歩分・

         日時   平成22年9月25日(土)午後1時~4時

    主催   万延元年遣米使節一五〇周年記念事業実行委員    横須賀市、

                                                         横須賀市教育委員会     後援 外務省

 プログラム     

     入場無料 (第一部・第二部とも一般公開されます)

 

第一部 記念式典  午後1時~2時

第二部 記念講演会 午後2時~4時       

                    講演者 星亮一氏(歴史作家)

                              ジョージ・M・ブルックⅢ氏 (史学博士、咸臨丸乗組みブルック大尉曾孫)

東京史跡巡り、その2です。

 

 

坂を下ったあたりの低地が清水谷(しみずだに)公園です。この場所には大きな石造りの大久保利通追悼碑があります。

坂の名の由来は、かつて坂を挟んで紀州家・尾張家・井伊家の屋敷があり、坂の位置がこれら3家の境界に沿っていたことから頭文字をとって紀尾井坂(きおいざか)と名付けられました。

大久保利通はこの紀尾井坂(きおいざか)の途中で襲われました。

この事件の前、近くの赤坂喰違坂では、岩倉具視が襲撃されました。襲撃事件の現場に坂が多いのは、見通しがよいことによるようです。

 ちなみに、事件に遭遇した時に乗っていた馬車は、倉敷市内に保管されていることはご存じでしたか? 私の日記、大久保の馬車」をお読みくださいね。

 

 

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  6月27日、東京を歩いてきました。梅雨の時期でしたので、雨の心配がありました。

でも、幸いに小雨でした。総勢19名が東京駅の銀の鈴を目印にして待ち合わせました。

初めてお目にかかる方もおいででしたが、無事に全員集合できました。これが集合場所の「銀の鈴」です。東京駅では、待ち合わせ場所としては有名な所だそうです。

 

 

 

 

全行程1万1千歩、それでは出発です。

まず、東京駅の地下から地下鉄丸ノ内に乗り、

赤坂見附で下車、地上に出て清水谷(しみずだに)公園に向かいました。見附とは、江戸城の外郭に位置した警備のための城門を指します。36ケ所あった見附のうちの一つです。現在に名前を残すものとしては、四谷見附・市谷見附などがあります。

極暑の夏まっさかりです。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

さて、人伝えに龍馬の500円硬貨が発売とのこと、早速、駅前のみずほ銀行に行きました。「取り扱いはございません」との冷たい返事に、がっかりというか、やはり、龍馬と私は縁がなかったのでしょうか。

でも、がっかりすることは、ありません。高知にキャンプに行った知人から、お土産の「龍馬ビール」を頂きました。今晩は、このビールで楽しい夕食としましょう。

ビール瓶の正面に龍馬の肖像画のあるしゃれたデザインです。

キリンビールのあの龍は、初代の社長であるグラバーが龍馬を思い出してデザインさせたとのこと。キリンビールを飲む時は、このエピソードを思い出しながら、喉を潤して下さいね。

 

今年の春、このブログにあるコメントがはいりました。内容は、私の写した京都・伏見の寺田屋の画像を北海道・浦臼町にある「浦臼町郷土史料館」(龍馬ゆかりの品々が展示されています)のカタログに使わせて頂けないかということでした。

これはもう、大変名誉なことと、即答させて頂きました。できあがり、たくさん送って頂きました。勝海舟の写真の上に私の寺田屋の写真、その説明の下に「みちこの幕末日記」みちこ氏提供と文章まで付けて頂きました。北海道映像記録株式会社 御中、、ありがとうございました!

「龍馬伝」の年に、この冊子ができる。とても良い記念となりました。いつか、浦臼、行きたいです。

「浦臼町郷土史料館」

http://mizu75ad.fc2web.com/2006/mukasi/siryoukan.htm

 

 

 それから、御所の北と南を塀沿いに歩き、荒神橋から近衛通りを抜けて聖護院へ。
ここも特別公開中で中に始めて入りました。内部は、御所から移築してきたとい
う素晴らしい障子や襖の数々、市松模様の白州の庭にびっくり(ノミ切り平板というのですね)。
いつも前を素通りしてばかりでしたので、内部の広さには驚きました。
最後は黒谷金戒光明寺へ。幕末には、京都守護職、松平容保の宿営のあった場所です。
更に歩いて、黒谷へ向かいました。
今回は山門が特別公開で、狭くて急な階段を登りきると、京都の絶景が広がっていました。
そして、特別公開の法然上人御廟を拝んで後、戊辰戦争の会津藩の戦没者の
会津墓地に登りました。
11時に出発して午後4時に無事に終えました。ひとりの落伍者もなく、
老人から子供まで約1万五千歩をよく歩きました。
打ち上げは四条河原町の居酒屋で行い、歴史談義に花を咲かせました。
作家の星亮一先生のオフィシャルサイトhttp://www.mh-c.co.jp/
に写真を掲載しています。
今回も和気あい合いの京都集会でした。
一万五千歩、楽しく歩くことができました。
次回は秋の未公開文化財特別公開です。

  数年前のこと、高知の日曜市で幕末の志士の手紙が古い手紙の中に混じって売られていたと聞いたことがありました。見つけ出した人もすごいですが、そんな貴重な手紙が、今だに発見されるということもすごいですね。

今回の龍馬の新しい手紙の発見は、まだまだ発見されるのではと期待を持たせてくれるニュースです。

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幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日、確認した。

 大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。

 手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。

 龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。

 持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。

 後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。手紙は7月17日からの同館の企画展で展示する予定。