みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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「江戸通になる本」 秋山 忠彌 (著) 新人物文庫 ¥ 700

「東海道五十三次の旅は何日かかったか」「見栄で食う初鰹代が十五万円!?」
「江戸ッ子の生活はタブーだらけ」「吉原通いは男の必須科目?」「娘かわいや雛かざりは高し」などなど、八百八町に生きた江戸庶民の暮らしと人情風俗のあれこれを満載した、江戸ものしり知識。「江戸ノベルズ」の世界を、より深く味
わいたい人に贈る指南書。

「娯楽都市 江戸の誘惑」安藤 優一郎 PHP新書 ¥ 735

芝居、相撲、寄席、見世物、花見、寺社の開帳、富突、大食い・大酒呑み大会――
天下泰平の江戸の町では、毎日どこかでイベントが催されていた。
浅草、吉原、両国、木挽町だけでなく、大江戸八百八町には刺激的な娯楽空間が満ち溢れていたのである。
人々は寸暇を惜しんで遊びに出かけ、現代の宝くじにあたる富突の当せん番号発表会場にも足を運んでいた。
こうして江戸っ子たちが遊びに費やした金が莫大な経済効果をもたらし、
町を活性化させていたのである。
娯楽という切り口から、知られざる江戸経済の実態に迫った新しい試みの書。

「江戸の科学力」学習研究社 ¥ 1,470

からくり人形から時計、数学、世界初の全身麻酔による手術を成功させた華岡青
洲、近代化を推進した薩摩の島津斉彬、日本の写真技術を定着させた上野彦馬、
等々、オールカラーで楽しめます。

「一個人 横浜を旅する」 ベストセラーズ ¥ 680

色鮮やかな浮世絵からスタートする横浜。ペリー来航から開港、東洋一の貿易港
へ。パン、クリーニング、競馬、新聞、アイスクリーム、ガス灯、横浜発祥の文
明開化が新鮮です。美味しいものからミュージアム見学、幕末から現代に至る横
浜が楽しめます

お元気でお過ごしでしょうか。
新型インフル、心配ですね。

さて、広島の「海の見える杜美術館」に行ってきました。

8月23日から岩倉具視文書初公開と関係する講演会が開催されていたのです。行って初めて分かりましたが、宗教法人の金持ち美術館でした。文献、散逸されず、ここで買ってもらっていて良かったです。
この風変わりな建物の1~2階が美術館でした。

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新発見の史料が多数含まれていることがわかった明治政府の最高指導者、岩倉具視の関連文書が21日、所蔵する「海の見える杜美術館」(広島県廿日市市)で報道陣に初公開された。調査を進めてきた研究者らが「明治政府の政策決定の過程などがわかる大変貴重な史料だ」と意義を強調した。

 文書は、西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文、三条実美らが、岩倉あてに
出した政策や政府運営に関する書簡、意見書など計約1700点。同美術館が2
3年前に入手し、未公開のまま所蔵していたが、昨年からの調査の結果、8割程
度が新出の史料とみられることが今月上旬に明らかになった。

 このうち約10点が公開され、調査を行った三沢純・熊本大准教授は
「当時、岩倉のもとにどんな情報が集まってきていたのかがわかり、意義は大き
い」と説明。佐々木克・奈良大教授は「明治元年の江戸への天皇の行幸について、
政府内で(計画が)どのように決まったのかなどがはっきりした。貴重な史料だ」
と話した。

 同美術館は今年8月23日からの特別展で一部を公開予定。三沢准教授らは
史料の全容解明を目指し、2年後に資料集を刊行する。

 

よみがえる箱館奉行所 五稜郭跡、幕末の姿復元    (北海道新聞 08/25 07:24)

【函館】江戸幕府の北方警備などの拠点として1864年(元治元年)に建設され、明治新政府によって1871年(明治4年)に解体された「箱館奉行所」の復元工事が函館市の五稜郭跡で進んでおり、外装部分がほぼ完成した。

外壁を保護するための覆いを外した工事現場では早速、観光客らが真新しい奉行所にカメラを向けていた。

 奉行所は木造平屋で広さ約千平方メートル。中央部の「太鼓櫓(やぐら)」まで含めた高さは約17メートル。函館市が2006年から、発掘調査の結果と古写真などを基に、本州の宮大工らを集めて当時と同じ場所、材料、工法で復元工事を進めてきた。
文化庁や道などの補助を含めた総事業費は約27億円。

 今後、内部の壁の塗装や、建具の取り付けなどの内装工事を進め、来年6月に完
成、夏にオープンする予定。
 

高知県立坂本龍馬記念館の企画展「-龍馬の望まなかった戦争-戊辰戦争」
(開催期間 2009年7月18日(土)~10月9日(金))を見に行って来ました。小規模なスペースでの展示でしたが、説明文の文章も素晴らしく巧みで、充実した構成でした。良い企画で心に深く残りました。
平和主義者の龍馬、彼の思いは私達の世代を超えて、永遠に語り繋がれていくことでしょう。

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今年は戊辰戦争集結140年目、幕末の志士達は天皇を中心とした国造りを模索し
ていました。龍馬もそうでしたが、武力は避けたいと考えていました。
しかし、戊辰戦争は起きてしまいます。大久保や西郷が、何故に、鳥羽伏見で戦いに踏み切ったのか。徳川慶喜は幕府を存続させたかったのですが、新政府側には慶喜を迎え入れることなどできませんでした。
徳川幕府を徹底的に根こそぎ壊してしまいたかったのです。
その中で、会津藩は粘り強く闘い、鳥羽伏見以来の戦死者は二千七百人を越えま
した。幕末当時の日本の人口が二千五百万あたりでしたから、この戦死者の数は
驚異すべき数です。

新政府は「薩長の人でなければ人ではない」と言われたぐらい薩長中心でした。
命の大切さ、平和思想を持っていた龍馬です、龍馬はこのような政府を作るために、薩長同盟をすすめたのではなかったはずです。

そして、西郷・大久保、亡き後、明治政府は歯車が狂ったように軍国主義へと向
かっていくのでした。
戊辰戦争が本当に必要な戦いだったのか、改めてそのことを問い直すものです。

「迷惑をかけ申す」、床の間を背に腕を組み、真っ赤な目でギョロリとにらみつけられた、あの顔が忘れられないと、西郷隆盛の思い出を祖母から聞かされ育った宮崎県延岡市の児玉剛誠さん(66)の生家は、

当時西郷隆盛が愛用した硯・船型枕などの遺品の他、種々の戦争資料が展示され、西郷隆盛宿陣跡資料館として現存しています。

また、西郷が陸軍大将の軍服をこの児玉邸の裏庭で焼いたといわれています。

西南戦争は、西郷の英雄像や田原坂の戦いが有名ですが、当時鹿児島県の一部で
あった宮崎県が最も烈しい戦場になった事実は教科書でも紹介されていません。

追われる兵士達は宮崎の民家からの略奪や放火などを繰り返し、人々を苦しめ続
けました。
両軍合わせて約三万数千人の死傷者を出した西南戦争。終結後、戦後処
理問題に取り組んでいる時、宮崎の人々は鹿児島の支配下に置かれていることの
理不尽さに気付き、そして、宮崎が鹿児島から独立する分県運動が起きるのです。

西郷隆盛は最後の宴を開くため、ニワトリを数羽調達してもらった礼に小判を三十
数枚置いていったといいます。「父親には兄弟が六人いて皆で分けた、父はそれ
で金歯を作ったそうです」と、児玉剛誠さんは回想します。西郷は、ここから険
しい山道を上がり、2週間かけて鹿児島まで帰り着き、自刃します。

画像は、資料館内、最後の軍議の様子をろう人形で再現したもの。

 

「致知」という雑誌をご存知でしょうか。

たまたま、友人から紹介され、幸いなことに
童門冬二氏の「小説・西郷隆盛」が連載されていたので、
これは楽しみだと読み始めました。

が、なんと、「致知」には西郷さんの連載を上回るような、
素晴らしい連載が載っていたのです。(童門先生、ゴメンね)

「子孫が語る日本の偉人」、8月号は、勤王の志士のカリスマ藤田東湖でした。

水戸藩九代目藩主・徳川斉昭に仕え、
藩政改革を推し進めた家老、また水戸学を大成させ、
幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた人物、

西郷さんをして、「東湖先生と話していると清水を浴びたような曇りのない心となって、帰り道さえ忘れてしまった」と言わしめています。(以上、「致知」より抜粋)

 

 

人を惹き付ける、その魅力、、、
直系六代目、添付画像の左手の子孫・英明氏をご覧になれば、東湖の面影もほうふつとしてくるではありませんか。

顔も性格も一族で一番似ているという英明氏は、
「思い込んだらまっしぐら、志のためなら自らの命も惜しくない」という東湖の導きか、介護福祉の革命児としてご活躍とのこと。

ため息付くほど、似ていますね。

           続きます、次回もお楽しみに。

今年の梅雨は異常に長いですね。

さて、先日の皆既日食、ご覧になられましたか。
こちら曇りでしたが、たまたま太陽が顔を見せて
友達は望遠鏡でしっかり見たと聞きました。

その日食、今を去ること八百年ほど前、源平合戦の時も起こりました。

平家は天文の専門家がいて、事前に知っていました。
しかし、源氏は知らなかった。暗くなってきて、
平家側から歓声が上がると源氏は天は平家の味方をしていると怯えてしまった。
この水島(岡山)の戦いだけは、平家の勝利でした。
現地の碑の上に黒い印刻が彫られていて、この黒点はなんだろうと
思っていたのです。

画像は、地元新聞掲載文です。

「幕末志士の「政治力」」-国家救済のヒントを探る (祥伝社新書143) (新書)
瀧澤 中 (著) ¥ 840

 幕末の混迷は現代の比ではないが、その混迷の時代を駆け抜けた坂本龍馬、
西郷隆盛、新選組、そして幕府側の志士たちはどのような政治意識を持っていた
のか。そして彼らの政治家としての力はどのようなものだったのか。現代政治学
家・政治史研究家である著者が、“人間力”の視点から、幕末志士と現代政治家
の違いや、彼らの活躍から国家救済のヒントまでを読み解いていく。

 

「江戸城を歩く」(ヴィジュアル版) (祥伝社新書 161) (新書) 黒田 涼 (著) ¥ 1,050

 突如として、東京の街角に江戸が現れる。
石垣、碑、門、大工事の跡、ビルの谷間に眠る江戸城の痕跡、
現在の地図と古地図を比較してカラー写真も満載、
江戸東京タイムスリップを楽しみましょう!

 

「絵で見る幕末日本 」(講談社学術文庫) (文庫) エメェ アンベール (著),  ¥ 1,155 
 1863年4月、日瑞修好通商条約締結のため来日したスイス時計業組合会長が見聞
した幕末日本の諸相。江戸は勿論、長崎・京都・鎌倉など日本各地の様子、特に
江戸の町を鉛筆と手帳を携えて巡り歩き、鋭敏な観察力で鮮やかに描き出す。
床屋・本屋・武道場等の情景や武家屋敷のたたずまいなど、
幕末の日本が鮮やかに蘇る細密で美しい挿画140点を掲載。

 

「漫画版 日本の歴史〈7〉江戸時代2 」(集英社文庫) (文庫)  高埜 利彦, 阿部 高明 ¥ 600 

  五代将軍綱吉は、礼儀を守り、お家に忠孝を尽くす新秩序を確立した。
戦国乱世の記憶はようやく薄れて、太平の世が花開く。およそ二百年間、日本は
戦争のない平和な時代を謳歌する。しかし、徳川幕府にとっては国庫窮乏との戦
いの連続でもあった。八代将軍吉宗の享保の改革以降、数度の改革が行われたが、
幕府の財政は根本的には改善されない。衰える幕府に海外列強の魔手がしのび寄
るのだった。劇画調漫画で楽しめる幕末史。

 

「偽りの幕末動乱」 (だいわ文庫) (文庫)  星 亮一 (著)  ¥ 650
 
 明治維新は、薩長の歴史である。そのことを思い知らされた一冊である。

  私は、安政の大獄を断行した井伊直弼を評価していなかった。
しかし、この考えがくつがえることになる。
『直弼を弁護したのは、海舟である。「あの男は立派だったよ」』
という意外な一行がでてくる。これは、深く私の心に響いた。
「安政の大獄は過酷な面もあったが、これを断行して開国を進めた
直弼は卓越した行動力の政治家だった」ということが理解できた。
物事を正確に判断するということに導いてくれた本書は、私には
記念に残る一冊になったように思う。

「当時の日本人は、この暴挙に拍手喝采を送った。痛快であれば
それでよしという風潮だった。勤皇・勤皇と人々は酔いしれた」とある。
当時の国民意識が、この一行でよく分かる。
このような事実を見事に表白した文章の切れが随所に出てくる。
「松平慶永、この人はいつでも第三者だった。肝心なときに姿を消していた。
そういう人が生き残るのが世の常というのは寂しい話である」というスパイスの
きいた人生訓、そして、引用文が的確に引用されている。

特に熱の入った、後半の盛り上がりがよい。
「会津藩は江戸に一大勢力を持っており、、、これだけの処遇を受けている
以上、京都守護職に選ばれるのもやむを得ぬことだった」とある。
会津藩が京都守護職に選ばれた経緯がよくわかった。

「薩長はイギリスに支援をあおぎ、幕府はフランスの支援を受けていた。
尊皇攘夷どころではない。日本はフランスとイギリスが入り乱れてどちらが
勝つかの、いわば代理戦争になっていたのである」…正に、本の題名の
「偽り」の真意がここにある。

幕末動乱の流れがよく分かった。歴史の醍醐味を感じ取る上で格好の書籍である。
幕末の歴史の奥深さを教えてくれた本書に深く感謝したい。

 

新しい発見がある内容の濃い本である。
知らなかった箇所や、印象深い所に、付箋を付けてみた。
いかに学ぶ所が多くあったか、相当な数にのぼった。

幕末史の登場人物の簡潔で見事な人物評価が楽しい。
板倉勝静は、単純を絵に描いた人物だった。
この方、わが地元の殿様でした。
まさにぴったりで、思わずほくそえむ。

井伊直弼と水戸の確執について丁寧に説明されていた。
きっかけがいかに重要か、その後の歴史の流れを左右するという。
薩摩は水戸を使って桜田門外の変を起こした。薩摩の工作の巧みさ。
会津は勿論だが、長州や薩摩、それぞれの立場から丁寧に解説されている。全体を見渡すことがいかに大切か。

高杉晋作の特異な存在感、幕府の無能さを誰よりも早く察知した冷静な状況判断。彼なくして、長州藩は存在しなかっただろう。
晋作の言葉で、「人は艱難は共にできるが富貴は共にできない」というものがある。
岩倉が亡くなり、その後の日本を率いた長州閥を予言していたのだろうか。

「勅書が偽物なら錦の御旗も偽物、これぞ幕末最大の謀略だった」
畳み掛けるような情熱的な文章が、140年前の革命を呼び起こしてくれる。

大久保利通が暗殺された時の馬車を見たことがある。
紀尾井坂を転げながら、天下を手中に納めた彼の脳裏に去来したものは、なんだったのだろう。
その答えは、本書を読めば明々白々である。

「謀略の幕末史―幕府崩壊の真犯人」 星亮一・著 (講談社プラスアルファ新書) 880円

元新聞記者の回想録を読む機会がありました。

40年間の記者生活の総まとめ、「東京五輪」から
グリコ・森永事件、「阪神大震災」、、、
その中で、一番、心に残った話は、駆け出しの頃、
先輩達から良く聞かされたという話です。

 

紀元前、中国に斉という国があって、崔杼という
実力者が荘公を暗殺して王位に就いた。

当時、中国のどの国にも太史という史官がいて、
歴史を厳格に綴っていた。斉の太史も「崔杼、
荘公を弑す」(弑すは目上の人を殺すこと)と
ありのままに書いた。

怒り狂った崔杼は太史の首をはねた。
太史職は世襲制。
殺された太史の弟が継いで、また同じことを書き、殺された。
弟の弟、三男が太史となった。
「怖くて夜逃げするのでは・・」と噂されたが、
三男も平然と書いた「崔杼、荘公を弑す」。
ここに至って、さすがに崔杼も殺害を諦めた。

この一行が奇跡的に歴史に残り、後世、司馬遷の
「史記」に拾われて、感動的なエピソードとなった。