みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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ヤマト政権の時代になって、児島は地方行政府の置かれた直轄地になり、児島屯倉(みやけ)を設営して盛んに塩の生産がおこなわれていました。古代の吉備の児島は本土の沖合にある大小さまざまな島の群集した島嶼(とうしょ)で天日乾燥のための浜辺がいたるところにあり、雨が少なく晴天に恵まれた地域でもあるため、国内屈指の製塩地帯となってヤマト政権の経済的基盤をなしていたのです。周辺の海域と「吉備の穴海」が干拓されて児島半島を形作る江戸期以降、干拓直後の造成地は残留塩分が多く米作には適さないため塩害に強い綿花が盛んに栽培され、人口扶養力に恵まれた地域の児島には繊維産業が勃興します。倉敷美観地区の大原美術館で有名なクラレの創業家である大原家はかつて綿花問屋を営んでいました。倉敷市児島は、のち、綿花栽培と稲作で富み栄えます。江戸幕府はその倉敷を天領とし幕末へと続くのです。Lempisaari,_Naantali,_Finland

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