みちこの幕末日記

   世に生を得るは事を成すにあり。

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●「コロナ後を生きる逆転戦略」 文春新書、人口減少と少子高齢化による衰退をコロナ禍が加速させた。2042年には高齢者が4千万人で多くは一人暮らし。日本という国が老後を迎えている。高齢者向けの新製品を開発して海外に売る。大企業でも副業OKの時代。マンションは賃貸、買うなら戸建て、タワマンは超危険。アフターコロナ時代に今までの常識は通用しない。世界と戦うために何で勝負できるのか、岡山のジーンズの聖地児島など、世界シェアトップを誇る中小企業は少なくない。地元に帰り働く若者も増えている。

●「365日でわかる日本史」清談社、私の画像は、70 ペリー 、107 南三陸町役場 津波後、 149 大阪城 、120 「皇后」 、186 大原美術館、掲載して頂いております。383ページに名前も入れて頂いて良い記念となりました。

●「新型格差社会」 朝日新書、非正規雇用が増え、夫の収入で中流生活を作り出すことが無理となった。コロナ禍でこの傾向が加速、親が子供の教育でお金をかけられなくなった。そのため、日本人の一組当たりの出生率は二人を切っている。満員電車で毎日通勤する必要がなくなり、自宅にいながら仕事ができるようになった。コロナ禍を奇貨として広がった新しい働き方はパンデミック終了後にも定着するだろう。ひきこもり100万人の日本社会、ごく平均的な家庭が低リスクで実戦できる環境を地域が提供しサポートしていけるかがカギになる。

●「資源の世界地図」 日経文庫、日本はのエネルギー自給率は9.6%、世界の主要国の中では極めて低い。再生可能エネルギーが普及すれば、石油などの調達が減りエネルギー安全保障が高まる。脱炭素のカギを握る鉱物資源の確保、資源の重心が石油から鉱物資源へ、石油需要は2019年がピーク、レアメタルで入り込む 中国、いかに中国依存を回避するか、急ピッチで動き出す日本都市鉱山で有数の資源量あり、日本の産業開発に期待。

●「最高の死に方」 宝島社新書、大事なのは、家族との話し合い。やっぱり死ぬなら癌が良い。ただし、治療はしない。意識を失った場合、救急車を呼ばない。1951年、今から70年前、国民の83%は自宅で穏やかに亡くなっていた。

●「ビジネス戦略から読む美術史」 新潮新書、フェルメールの名作「牛乳を注ぐ女」は三年分のパン代だった。オランダの画家はパン屋より多かった。不動産としての「最後の晩餐」、動産としての「モナリザ」、1796年、ミラノに侵攻したナポレオンは「最後の晩餐」をフランスに持ち帰ろうとした。1980年に「最後の晩餐」が世界遺産に認定されたのも、その不動性にある。

米国人・ハリスが、長い船旅を経て日本に着いたのは、今から150年前だった。 貿易を通じて日本を国際舞台にデビューさせた功労者。 だが、先に来日したペリーほど有名ではない。 エリート軍人のペリーと違って、ニューヨークの貧しい家に生まれ、中学 を出ただけで働きながら学んだ。貿易商になり、各国を巡り歩き、商売 が傾き、大統領に陳情して、この大役を任された。 ペリーとは日米和親条約を、このハリスとは通商条約を結ぶことになる。 74歳の生涯を独身で通し、読書家で教養人、きまじめで優しかった。(ハリス「日本滞在記」より)

このハリスの「日本滞在記」には随所に鋭い観察眼が光り、案外ユーモラスだ。 日本上陸を目前にした日記には、自らを日本における「文明国からの 最初の公認された代理人となるであろう」と高々と宣言している。 「日本は狭少なので、三港 以上はひらかないことに決めたぁ~」という駄々っ子のような 幕府を口説き落とし、日本側が気を緩めた隙に江戸などの開市を 要求、、、帰国後は公職を退き、ニューヨークの質素な下宿で、 謙虚な生活を送ったとあります。 実直な人物だったのですね。 いよいよ、ハリスさんに好意を持ちました。

当時の日本は時がゆっくり流れていて、「イエスかノーか」という きっちりとした答えを求める欧米人には理解されなかったのですね。 しっかりとした日程を組んで行動するハリスさんにとって、交渉場所 に行っても、幕府役人は雑談ばかりして前になかなか進まない、 益々、ハリスさんは苦虫を噛み潰した顔になってしまったのでしょう。

 

 大阪西成区で起きた住宅崩落事故に続き、今度は伊豆熱海での土石流による大災害。目を疑うような映像がテレビや新聞の一面に映し出されています。
 梅雨に入り連日の雨の伊豆地方でしたが、特段強い雨が降ったわけではなく、なぜこのような大災害が起きたのでしょう。土石流の始点は生い茂る木々を伐採し、盛り土が盛られて作られた土地。どこから来るとも知れぬダンプカーが、大量の土砂を運んで来る様子を住民の方は何度も見たといいます。運んで来るというより、捨てに来ていると言うのが正しいのかも知れません。
 Google Mapで見てみると、そこは廃棄物処理用地らしき名前が出ていましたが、今朝、もう一度見てみると、不思議なことに今度は土石流起点と表示が変えられていました。
 伊豆地方には似たような地形の場所が多数存在しますが、何故ここだけが大きな土石流が発生したのか?無謀な土地開発による「人災」の匂いが強く残ります。
 30名近い方がまだ見つかっていません。一人でも多く救出されることを願わずにはいられません。
本日、ザ・戊辰研マガジン2021年7月号(Vol.45)を発刊しました。
どうぞご覧ください。ザ・戊辰研マガジン (publishers.fm)

八幡和郎先生の新刊書「365日でわかる日本史」に私の画像をたくさん使って頂けました。

70/365 下田のペリー像、107の南三陸町役場(津波後)、 120の美観地区のお雛さま

149の大阪城、186の倉敷大原美術館、です。

書店に行かれましたら、是非、ご覧下さいませ。(^o^)

大阪阿倍野墓地の「長州藩死節群士之墓」です。禁門の変に敗れ千日獄舎で亡くなった長州藩士たち、この碑の前方に、「長州藩殉難者顕彰碑」もあります。左後方にアベノハルカスが見えています。真ん中にある大きな「顕彰碑」の2つの碑を囲んで、48基の墓碑が並んでいます。禁門の変は前年の八月十八日の政変で京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。戦火により約3万戸が焼失した。大砲も投入され激闘の末、長州藩勢は敗北し尊王攘夷派は真木保臣ら指導者を失い大きく後退した。

 今から20年前の6月8日、大阪の附属池田小学校で学童8人が殺害され15人が負傷をした悲惨な事件がありました。6月8日で20年目を迎えます。その当時2年生だった子供たちは28歳になりますが、その当時の状況を忘れてはいないと言います。
犯人の先祖は旧薩摩藩の下級武士。父親は薩摩の血を引き教育は厳格で、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを持ち続け、そして暴力も多かったといいます。
親子間の確執は昔も今も変わりなく、コロナ禍で家に籠った生活が多くなった今、なおさら親子の争いが絶えない家庭が増えているといいます。その反応が、外に向けての犯行に繋がらなければいいのですが。

さて、本日「ザ・戊辰研マガジン2021年6月号 Vol.44」を発刊しました。どうぞご覧ください。

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龍馬の手紙、複製あったぜよ…後藤象二郎を激励

幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかった。

大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。

手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。

龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。

持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。

後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。


高知の日曜市で幕末の志士の手紙が古い手紙の中に混じって売られていたと聞いたことがありました。見つけ出した人もすごいですが、そんな貴重な手紙が、今だに発見されるということもすごいですね。

今回の龍馬の新しい手紙の発見は、まだまだ発見されるのではと期待を持たせてくれるニュースです。

京で日本最古の新聞発見 「文久二(1862)年正月元日」の日付がある(松田清京都外大教授提供)

京都市下京区の本草漢学塾「山本読書室」跡で見つかった数万点の史料群の中に江戸末期の「文久二(1862)年正月元日」と印刷された日本最初の新聞が含まれていたことが3日分かった。 調査した松田清京都外国語大教授が記者会見で明らかにした。縦24センチ、横33センチの和紙に、縦1段組みで38行が木活字版で印刷されていた。タイトルはオランダ語で「新聞紙の写し、1862年1月1日、ミヤコで」と記され、本文は漢字仮名交じり文だった。 松田教授は筆者名を分析し、「ロビンソン・クルーソー」を初めて日本語に訳した膳所藩(大津市)の蘭学者黒田行次郎(1827~92年)が京都で発行したと結論づけた。 これまでは江戸幕府の洋学研究機関・蕃書調所がオランダ語新聞を翻訳し、「文久二年正月」に発行した「官板バタヒヤ新聞」が日本語初の新聞とされていたが、日付が不明だった。新史料は日付があり、日本人が日本語で記事を執筆、編集した新聞としては最古という。 内容は天文学、理学、中国の海外情報などが幅広く記されている。幕府の小笠原諸島での調査、薩摩藩による英国製の船購入、彗星(すいせい)の出現などの話題を載せている。洋学を重視しない自藩に対する不満も書き連ねている。 史料群の中に、幕末から明治にかけての岩倉具視あての新政府要人からの手紙が61通あることも判明。西南戦争時の木戸孝允と大久保利通との意見の相違など、当時の政府内での力の構図が分かるという。また、鎌倉時代の北条政子の書状なども見つかっている。 松田教授は「文書から標本など文系、理系を総合した史料群は全体一括で重文級。共同チームで研究態勢ができるようにしてほしい。まだ知られていない歴史の解明も期待できる」と話している。 【京都新聞】 (2014年2月4日付け)「文久二年正月元日」  最古とみられる日本語の新聞。

ゴールデンウィークが終わりました。さぁ、今日から仕事だ!という方も多いのではないでしょうか。反面、今日から仕事探しだ!という方も多いのも事実。

今日、スタッフの雇用保険手続きで職安に行きましたが、求職コーナーは職を求める人で溢れていました。コロナで職を失い苦しむ人々、売上が無くなりやむなく事業を辞める事業主も増えています。先の見えない不安に駆られ、明日は我が身か!の心境であります。コロナで破壊されたこの社会、元に戻ることは難しいかと思います。どこかで方向転換が必要なのかも知れません。

さて、本日「ザ・戊辰研マガジン2021年5月Vol.43」を発刊しました。どうぞご覧ください。

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大原美術館横の喫茶エルグレコでお茶して来ました。この建物は、大原美術館の設立者・大原孫三郎の事務所として大正末期に建てられ、その後、「美術館で絵を観たお客さんが休める場所を」と昭和34年(1959年)に喫茶店としてオープン。石坂浩二さんも来られるそうです。

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